何度か観ている黒澤明の『七人の侍』をまた観ている。
何度観てもしっかり感情を揺り動かされるのはもちろん、観るたびに新たなディティールを発見して、さすがクロサワだなぁと思わされる。
今回は特に、村人たちがいかに「和」を優先するかが際立って感じ取れた。娘の髪を切って男に見せかけるといった一人の村人の行動が「村を壊す」とされ、野武士の略奪よりもそちらを重大視する様子は、まさに「日本的」だと思う。同時にその村人たちは、床板の下に落ち武者から奪った武具を隠し持ち、菊千代いわく「米や酒も出てくる」ぐらいずる賢い。このあたり、じわりとした重厚的な現実感がある。
一方で、これは本当にそうなのかと思う部分もある。
野武士の集団は、前年にも収穫時期を狙って略奪している。しかし、いかに武装した野武士とは言え、暴力的に略奪するには大きなリスクを伴うはずで、事実村人は落ち武者狩りができる程度には武装している。単に荒っぽいだけの野武士の集団がそもそも集団を維持し続けられるのかも疑問である。網野善彦的な無縁の視界から見れば、本当のところはもう少し違うのではないか。
野武士の集団は、最初こそ武力を見せつけた略奪を行ったかもしれないが、ある程度農人を怯えさせてしまえば、あとは「乱暴されたくなければ米を出せ」と脅すだけで良いはずだ。野武士も食べていく必要があるのだから、農作物を作る農人を殺してしまうことは自分たちの利益にはならない。できれば定期的に安定した食料を確保できたほうがいいのだから村人たちが飢えない程度に継続的な要求をしたかもしれない。
さらには「もし他の山賊や何かが襲撃してきたら俺達が守ってやる」といった契約を交わし、自分たちの食料供給源としての村を保護し、いわゆる「シマ」としたのではないか。そうやって自分たちの力を温存することで支配地域を増やして行き、やがては「シマの中で揉め事が起こった時は、間に入って話をつけてやる」といった調停役もやっただろう。
野武士の集団は「悪党」なのだけど、この場合の「悪」とは、国家の権力の外において、武力・警察力、司法・調停、税の徴収などを勝手にやるという意味で「国家の権力とその支配下にある社会からみた不都合」という意味での「悪」である。単なる乱暴者の集団というよりは、僕はこういった見方のほうがリアリティを感じる。
そういうわけで『七人の侍』がどういう映画かと言われたら、一つの見方として、農人と侍という有縁の農本主義的で主従関係的支配の中のプレイヤーと、野武士の集団(悪党)という無縁の重商主義的で統治権的支配の中のプレイヤーとの闘いを、後者にネガティブな脚色を加えた上での、前者から観た景色であるといえるのではないか。