昔の写真の整理をしている。
残すべきか残さなくてもいいか、そういう視点で写真を整理していく。
ピンぼけだったり、スローシャッターで大きくぶれていたり、暗すぎたり、明るすぎたりする写真は、残さなくてもいいものに分類していく。
その作業もしかし、数千の単位の枚数になると、やがてあやふやになっていく。
作業によって、写されたもの〈被写体〉は増え続け、
一つひとつの〈被写体〉の意味は薄れていく。
同じものがたくさん写され、その価値は低下していく。
一瞬を切り取るのが写真であるが、
〈被写体〉の「その」一瞬が膨大に膨れ上がっていく。
そしてやがて、積み重なった〈被写体〉から意識が逆向きに写し出されていく。
〈被写体〉からの視線が現れてくる。
〈撮影者〉の姿が見えてくる。
すると写真は一気に違ったものへと変化する。
ピンぼけだったり、スローシャッターで大きくぶれていたり、暗すぎたり、明るすぎたりする写真は、その瞬間、確かに〈撮影者〉がそちらを見て、シャッターを切った。
〈被写体〉によって成立している写真は、〈被写体〉が良く写っていることがその要素である。それと同じぐらい〈撮影者〉が良く写っている写真が見えてくる。
なぜ〈撮影者〉はその瞬間、カメラ〈を〉、そちら〈を〉、向け、シャッター〈を〉、切ったのか。
積み重なった〈撮影者〉の行為が写しだされていく。
写真が、〈被写体〉の〈記録〉であると同時に、写したもの〈撮影者〉の〈記憶〉である。
昔の写真を整理している。
今、〈記録〉と〈記憶〉が同時に現れてくる。