「【158】僕の原爆。」の続き。
8月6日に広島へ行くことを決めたのだけど、それ以降、その準備のようなことはしていなかった。それがつい先週、ようやく、その気になって、交通手段などを調べだした。そろそろ必要な予約類をとっておかないと行けなくなってしまうのではないかという不安が出てきたからだ。
式典は朝8時からだが、一般席は7時過ぎには満席になるらしい。今は特段、席に座りたいという気持ちはないけれど、その場に行けば座りたくなるかもしれない。6時半に開場だから、それぐらいの時間に行けばいい。
時間的には、まず夜行バスが思い当たる。お金は乏しいので、なるべく安い方がいい。一方で時間は潤沢にある。調べてみると夜行よりも昼間のバスの方が安かった。その差額、約2000円で、格安の宿があるかどうかを調べて見ると、あるにはあったが8月5日から7日は、僕の要件を満たす部屋は満室だった。ネットの予約カレンダーは、だいたいその後少しあいて、お盆休み期間にまた満室の「☓」マークが続く。つまり、原爆の日の前後、広島は宿泊客が特別多いということになる。僕も含めてダークツーリズム客が増えるのかもしれない。あるいは各種イベントへの参加者か。
原爆ドームの古ぼけた白黒写真を僕が初めて見たのは、たぶん小学校の社会科の授業だったと思う。教科書に出てくるこの出来事の象徴的なビジュアルとして、京都府宇治市の小学校で教室にいた僕以外の子どもは、おそらく一様にぞっとするような不気味さや悲惨さをその写真から感じていたと思う。でも僕は違った。広島が僕の父親と祖母の出身地であって、僕とつながりのあるその場所が、こうして教科書にも載っている世界的な大事件の現場であることに、少なからず、今となってはもう「誇り」としか言いようのない、高揚した気分を感じていた。この「誇り」は、今でも僕の中に残っていて、原爆ドームの写真を見るたびに子供の頃の感覚が蘇って、懐かしさと親しみとを感じる。
東浩紀らの『福島第一原発観光地化計画』で僕はチェルノブイリ原子力発電所の見学ツアーがあることを知ったのだけど、その記念撮影ポイントから見えるあの構造物、コンクリートで箱詰めされ、左右の上辺の角が斜めに落ちた文字通り棺桶のようなあの姿に、懐かしさや親しみを感じる人達がいるかもしれない。
宿の予約が取れなそうだとわかると途端に僕はやる気を失った。見てみると高速バスの残席も1や2となっていて、すぐにでも決めないとという気にさせられ、それがさらにやる気を失わせる。僕が僕の原爆に会いに行くのと同じように、同じ日程で広島へ行く人が多いということ自体にどこか興ざめするような気持ちが湧いて来て、それは子供の頃からのあの「誇り」に由来する独占欲のようなものかもしれない。
とは言え、行くということは決めていて、その事自体を撤回するところまでは、僕の気持ちも消えてしまわず、結局、青春18切符を使うことにした。5日の日中に移動して、夜はネットカフェででも休めばいい。翌日、式典に出て、その後、気が済んだら、また6時間半かけて電車で帰ってくればいい。こうして予約を排除する旅程に落ち着いた。
決めてしまうと現金なもので、気が楽になって、式典は8時から始まって45分で終わるから、その後、もう少し広島にいようという気になった。以前から気になっていた父と祖母の家の跡に行ってみるのもいい。僕が幼児のころに祖母と父と母は、宇治の家を建て、その時広島の家は売却されている。売却されているが、本籍地としてはそのまま残してあって、父母を始め僕と僕の弟、妹、全員の本籍地はその広島の家であり続けた。その後、僕は結婚し籍から抜けた。
そんな僕自身の本籍地でもあったその住所を、しかし僕はもうすっかり忘れてしまっている。母に電話をすればすぐに分かるのだけど(母は有効期限が切れた昔の免許証を「便利だから」という理由で持っていて、最近の免許証では本籍という欄はもうないけれど、母の免許証にはその欄があり、つまり母親の本籍は今でも広島だ)、母に電話をする気になれなくて、考えた挙句、実家の父の部屋を物色することにした。
実家は、うちの斜め隣にあって、歩いて20秒ほど。最近の母は、秋田の自分の実家に帰っていることが多くて、時々この家にも戻ってくる。今は居ない時期で、つまり秋田にいる。僕は家に上がると父の書斎の電気をつけて、その手の書類か何かのある可能性が一番高そうな、書斎の奥の机の引き出しを開ける。案の定、広島市中区役所の破れかけた封筒が見つかる。そのなかには何枚かの紙切れが入っていて、たとえばパスポートのコピーなどがある。パスポートには詳細な本籍地住所は載っていない。父は学者らしくこの手の書類をきちんと残している。やがて苦もなく目的のものが見つかる。
戸籍謄本。父は何かの時に取り寄せたのを残しておいたのだろう。広島市長の署名が入っている。父の父、つまり僕にとっては祖父にあたる人が筆頭である。祖父にあたる人、と書いたのは、この人は僕が生まれる前になくなっていて、僕自身は会ったことがないからで、母方の祖父にあたる人も、僕が生まれるずっと前に死んでいて、つまり僕には祖父にあたる人がいない。
戸籍の住所を見ると、広島市中区大手町の5丁目とあった。2丁目か3丁目だと思っていたのは記憶違いだったようだ。謄本の他にも、被爆者健康手帳のコピーがあったので、それを家に持ち帰ってコピーした。手帳によると、父は「満1歳」の時「広島市己斐町」で爆心地から「3.0キロメートル」の場所で被爆している。法第一条による区分は「第1号」。その他の欄、「被爆直後の行動」「被爆当時の外傷・熱傷の状況」「被爆当時の急性症状」「過去の健康状態とかかった主な傷病名および時期」は空欄だった。
グーグルマップで調べてみると、広島市己斐町というのは今の西広島駅周辺らしく、西広島駅自体、以前は己斐駅という名で、1969年に改称されている。以前聞いた母の言葉からすると、祖母と父はこの己斐駅(西広島駅)で被爆したのだろう。それがわかると、ずっとやり残していた仕事がひとつ終わった気分になった。一方、自宅の住所の方は簡単には判明しなかった。戸籍の住所の番地が今の番地とは異なっていて、マップに表示されない。
薄暗く、死んだ当時のまま片付けもほとんど終わっていない父の書斎で、タイプライターらしき文字に手書きで書き加えられた古めかしいその謄本が見つかった時から、僕はすでにちょっとした興奮状態にあって、ここまで来たのだから、どうにかしてその住所に行ってみたいという気がし始めていた。そのために、その家に父や祖母と一緒に住んでいた父の妹、つまり叔母に当時の家の話を聞くつもりになっていた。
叔母は今、奈良に居る。この間、美味しい奈良漬けをもらった。叔母の夫、つまり僕の従兄弟の父親も僕の父親と同じで、去年なくなっている。こちらの一周忌には来てもらったのに、あちらの一周忌は行けなかったので、お線香を上げにもいきたい。叔母の電話番号を探したけど見つからず、結局、さっきかけるのをやめた母に電話をかけて、叔母の番号を聞いた。一瞬、戸惑ったような反応をしたが、母は特に理由も聞かずに教えてくれた。
あとは叔母に電話して、できれば直接会って、広島の家のことを聞けばいい。地図を持って行って印をつけてもらってもいい。いずれにせよ、これで多分、必要な情報は揃った。そう思うととたんにお腹が減っていることに気がついた。
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