「感情的な人だ」とか「論理的な人だ」とかいう言い方があって、だいたい前者と後者は反対に位置しているとされる。僕はよく「論理的な人」に分類されるのだけど、自分では論理的だとは思っていない。ただ、僕が考えていたり話していたり書いていたりすることは非論理的だけど、それをどうにか伝えようとする際に「せめて論理的に見えるようにしておこう」とは思っている。
それに、感情的の反対が論理的というのにそもそも無理があって、感情的な人の反対に位置するのは、たぶん「無縁」の人だと思う。
感情というのは、人間が社会を持つことに関係していて、さらにそれが「縁」というものにも関わっていると思う。
では、無縁は非感情あるいは無感情かというと、そうでもあるのだけど、でもちょっと違っていて、無縁は「感情というものを扱える」ということだと思う。感情の中にいる人に対して、感情を外に置く人と言ってもいいかもしれない。実際に、そういう目で見ると、無縁の人とされる人々は、人間の社会おいて大きな感情の隆起や陥没を伴う事柄に携わり、それを扱っている。葬送、芸能などなど。
これについては、最近教わったことがある。「無表情」の代名詞とも言える能面をかぶり、微妙な体の運びから見ている人に喜怒哀楽を沸き立たせる能の演者は、演者自身の感情をなくし「カタ」となる必要がある。その空っぽの「カタ」に、見ている人が感情が入るのだという。感情を扱うためには無感情になる必要がある。そしてもちろん能は無縁である。
感情の中でも力が強く安定しているのが憎しみで、愛よりもはるかに「両想い」になりやすい。愛が山だったら憎しみは谷で、丸いボールを山の上に固定するのは難しいけど、転げ落ちたボールは谷底で静止する。憎しみは感情の中で最も強固なものといってもいいかもしれない。
だから、この憎しみという強力な感情に対して「無縁」という立場の持つ意味はきっと重大なのだけど、
と、自分で書いてきて困ってきているのだけど、なんでこれを書き始めたかというと、昨日のエントリーで国家間の紛争についても触れて、でもそれについてはまったく放置してしまった感じがしていて、それに対して何らかの糸口になるかと思って考え始めたのが上記のようなことで、つまり「無縁」が現代においても世界平和につながる有力な何かだと言いたかったけれど、今はここまでしか辿りつけない。