苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。
■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。
やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。
■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。
やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
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三浦つとむは、 「小説の作者は、空想の世界を想像することで観念的な分裂をしなければなりませんし、この分裂した自分はその世界に登場する人物につぎつぎと自分を変えて、それらの人間として考えたり語ったりしなければなりません」
と書いていてさらに、これが
「たいへんな重労働で、この重い精神労働が続くとしまいには耐えられなくなります」
と書いていて、これは、
「文章を読むのは大変なんだよ。皆、文章っていうのは簡単に読めると思っているんだけどしゃべったり、受け身で音楽を聞き流すことよりもずっと大変なんです。人間が脳で一時期に使える注意力の容量には限界があって、文章を読むというのは、それをかなり使うんだろうと思う」 [『この日々を歌い交わす』佐々木中]
と佐々木中との対談で保坂和志が言っている。同じ佐々木中との対談で、
「私は子猫の動くのを見ていると、いつもハ虫類みたいだ。」
という『生きる歓び』の中の一文を出してきて、
「この文章、変だって言われるのね。「いつもハ虫類を思い出す」とか「連想する」にしろと直しが入る。最近思うんですけど、こう書いていても、そういう風に直せたっていうことは、通じているわけですよね? つまり、読者はここで楽しようとしてるわけですよ。」
というところは他でも読んだ気がするけど、いつも楽しい。三浦つとむが「時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題」という節で、例えば、宇宙は永遠に存在する。明朝行きます。といったような現在形の使い方について、ジェリコオの『エプソムの競馬』という馬の絵についてロダンが
「これは観る者がこの絵を後ろから前へと眺めてゆきながら、同時にまず後脚が全般的飛躍を生ずる努力を完了し、次いでその体がのび、さらに前脚が遠く前方の地面を求めるのを眺める、そこから生じているのです。」
として
「私はジェリコオこそ写真を圧倒しているのだと信じています」
と断定するところがゾクゾクする。直しを入れたり、「写真の乾板は決してこのような表現を示さない」と言ったりしないで、読んだり観たりできる。
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