時々竹を削ったりしたくなる。 |
そういうふうに人が増えてくると、これまでだったら足りていたものが足りないということも出てくる。先日、庭でホルモンを焼いた時に、竹の箸が足りなかった。足りないというのはその時に困ることではあるけれど、足りなくなるほど使われているというのはとても心地よくて、それなら作ろうという気になる。
昨日までは涼しい雨だったけれど、今日は蒸し暑い雨で、梅雨前線の南側に入り込んだ。前線の南側は夏であり、僕の勝手なイメージの「アジア」である。
雨粒が落ちる音を聞きながら、まとわりつくような湿気の中、竹を斬り、割り、削っていく。庭先に座って、ナイフと竹の棒を動かす。しばらく同じような動作を続けていると、意識がなくなる状態に近づいてくる。ナイフの刃を滑る竹を見続けていて、竹の状態を常に観測しながら、竹を握った手の握る強さや動かす方向、力をかけていく角度を微調整し続ける。頭の機能がそれにすべて費やされていって、現実を現実と認識する機能に頭の資源が回らなくなっていく。現実が現実でなくなっていく。視界が極端に狭くなっていて、ここは「アジア」だなぁと思えてくる。行ったこともないのに勝手に想像する「アジア」。ベトナムやフィリピンやカンボジアやマレーシア。
指が疲れてきて、手を休め、体を起こすと視線が合う。ベトナムやフィリピンやカンボジアやマレーシアといったアジアの国のどこかで、同じ雨と湿度の中、竹を削っている男が、顔を上げてニヤリと小さく笑っている。嫌な感じの笑いではなくて、いつもの仲間に頬の筋肉だけで挨拶するような笑い方。僕もニヤリと目を細めてやる。
その男によると、どうやら仲間は僕らだけではなくて、他にも今、ちょうど一緒に竹を削っている。ベトナムやフィリピンやカンボジアやマレーシアといったアジアの国のどこかに彼らはいて、今、視線が合うとニヤリと笑い合う。同じ雨の中でそれぞれの道具とそれぞれの服装とそれぞれの流儀にしたがって竹を削っている。
僕はまた、視線を落として手元の竹を動かす。小気味よく竹が削れて、くるりと丸い削りかすが足元に一つ、一つ、と増えていく。なるべく慣れた手つきで、手際よく、焦りを見せず、つまりは、これはいつもやっていることで僕はそれを意識しなくてもとても上手にできるのだということを彼らに見せつけてやる。見えなくても気配で、彼らもそれぞれの独特の体の使い方で美しく竹を削っていくのを見せつけてくる。
竹の表面を触って確かめながら、指の力を加減する。ただ竹を手で削っただけという野卑な見た目を演出しながらも、しかし同時に、手に持った瞬間に意外な軽さを感じ、箸先のコントロールもしやすい。そんな箸を目指して、何度も右手で箸を持つように竹を持って確かめ、削りこんでいく。仕上げに近づくと、動作は小さく繊細になる。表面の手触りでざらつきを探して、そこに細かくナイフを当てて、表面を整えていく。置いてある箸を手にとり、何かを摘んでみてまた置く一連の動作に満足していると、
「お前のそういうところ、日本人だよなぁ」
彼らの一人が言い、みんながそれにつられて笑っている。気が付くと雨が上がっていて、見知らぬ仲間たちはもう姿を消している。風が少し吹く。