July 3, 2015

【195】憎しみという縁と敵味方のきらいなき「平和」。

昨日の続き。

「憎しみというもののもつ強烈な力だけが取り扱い注意」と書いたけれど、これは国家間の紛争を見ていてもそう思う。もともと資源の略奪というきっかけがあったとしても、それ以降、終わることがない解決の糸口すら見えない状況というのは、純粋に「憎しみ」の流通をやっていることでしかない。

憎しみというものは、強烈な力を持っている。そして、力というのはそれを行使する人にとってある種の満足感、充実感といって良いようなものを発生させている気がする。だから、「先が見えない」「どうして良いかわからない」といった不安定な状況になった時、憎しみの持つ確かな感覚、強い感情の発露、興奮し活性した状態、その高温高圧の状況での「存在感」を欲しがるのではないだろうか。

「お前は悔しくはないのか?」といったように、喧嘩の場で憎しみの感情を持っていない人というのは、その喧嘩に参加していないと見なされる。喧嘩の仲裁はそういう人が行うし、その際に、感情的ではないというのが条件となる。もしも、仲裁者が感情的になってしまえば、それはもうその喧嘩へ参入したことになって、喧嘩という場に存在することになる。そして、仲裁する能力の源である「敵味方のきらいなき」立場は失われる。つまり無縁の存在でいられなくなる。

縁切り寺への「駆け入り」は、他者との離縁を求めてというよりも(これには滞在期間が数年必要でその間にある程度「熱」は冷めてしまうだろう)、もっと切実に目の前で起こっていること、つまり自分の感情の強烈な発露である憎しみ、それからの離脱である「平和」を求めてなされてきたとも言える。


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