July 1, 2015

【193】声のコミュニケーションとしてのfacebook。

澪がfacebookを辞めるというので、僕もそうしようかなと思って考え始めた。

SNSを退会するということについてのハードルというか、心理的障壁のようなものについては、以前twitterを退会するときにブログにも書いた。
【009】Twitterをやめてみると決めてからが長い
facebookもほぼそのままあてはまる。ただ、twitterとfacebookという仕組みそのものの違いは自分の中ではっきりしておきたい気がするので、それをまとめてみる。

まず、僕が他人に何かを伝えるときに大きく2つの方法がある。

一つは声、もう一つは文字。

声は「瞬間、目前、肉体」。
声は、その瞬間に肉体によって目前に向けて発せられる。

文字は「永続、遠隔、物体」。
文字は、永続する物体によって遠隔に向けて発せられる。

手紙は文字を扱う死のコミュニケーションで、それが読まれる時に差出人が生きていることを証明できない。どんなに頻繁にやりとりをしたとしても、書かれた瞬間には生きていたということしか確かなことがない。

声による「話」は、発話と発話の間の沈黙ですら、生きているということを確認できる。

まとめてしまえば、声は「生のコミュニケーション」、文字は「死のコミュニケーション」と言える。

facebookは基本的には「投稿する」という文字のコミュニケーションで成り立っている。
だから、死の側に位置するのだけど、手紙や書籍やブログなどの文字メディアでは感じない「生」の息遣いを感じ取ることができる。facebookは、死のコミュニケーションをベースに、生を演出したシステムである。

それは、facebookというシステムが、単に「文字列の投稿と表示」というウェブ上のITシステムとしてではなく、人間関係のネットワークそのものとして構成されているからだと思う。facebookという仕組みは、人間関係という網の目の上を行き来する個々の行動の伝達である。あたかも神経を伝わる信号のような。

「友達」をつなぎあわせ、その「友達」たちの行動、例えば誰かが誰かの投稿に「いいね」した、誰かが誰かと「友達」になった、などの行動を出来る限りリアルタイムに「友達」たちに流通させることによって、自分を含む「友達」たちが今この瞬間もそこに生きて存在(生存)しているように見せかけている。

facebookにログインしていない間、facebook上のアカウントは、ブログのように「死んでいるかもしれない」とは認識されず、単に「黙ったままで動かない目の前に生存する人」のように振る舞う。もしも、現実世界の生身の僕が死んだとしても、facebook上では単に黙ったまんまの人になる。死んだとはみなされない。

twitterは、限界まで微分して、書いた瞬間を読む瞬間に近づける。個人をその瞬間でスライスして、別の個人のスライスとを混ぜて重ねる。それによって人間は、連続性のある存在ではなく、現在のその瞬間のスライスとしてしか存在しない。更に、フォロー、フォロワーという関係はtwitterでは「人間関係」を意味しない。だから、facebookの持つ、画面上に表示されている「友達」たちのような、今も確かに生きているという感じがしない。twitterでの「生」は、川の水面を流れてくる葉っぱのように次々と「今生きている」「今生きている」「今生きている」・・・という断続的な生存確認の更新となる。

facebookは、人間関係そのものを再現することで継続した生を演出している。声のコミュニケーションのように、ログインしていない時、つまり沈黙している時ですら、生きている感覚をもたらしている。すべての「友達」の投稿が表示されているわけではない(エッジランク)という、どこか釈然としない恣意的な見え方も、生身の人間臭さを演出している。

特に目的もなくfacebookにアクセスしてしまう、そのついでにいろいろと「友達の友達」をクリックして見てしまう、というような動作を自分がしてしまっているということからも、facebookという世界に自分の分身が出現している気分がしてくる。こういう、もうほとんど意識的でない、無意識とも言えるようなウェブページの閲覧行動がリアリティを作り出している。facebookという世界に「僕出張所」ともいうべき仮想的な自我=アカウントがゾンビのように出現している。

同じような閲覧行動はtwitterでも生じるけれど、過去の投稿をたどっているようにしか感じられず、facebookのような人間関係のネットワークそのものが常に更新し続けていて、今この瞬間も「友達」が新たな「友達」を得ていて、「友達」が「友達」の投稿に「いいね」し続けているはずであるといったような、更新され続けている現在の人間関係を移動しながら俯瞰的に見ている気分はない。

facebookの画期的なところは、これまで文字メディアが負っていた断続的な過去に対してしかできなかった「生」の証明を、「関係」そのものと文字とを同時に流通させることによって、連続的な現在の生=声に近づけたところにある。


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