April 3, 2020

【652】久しぶりの京都駅。

たぶん二ヶ月とか三ヶ月ぶり。電車に乗る。アラタのアトピーの薬をもらいに行く。アラタの調子はとても安定している。病院に電話して診察をやめて、僕だけで処方箋をもらいに行くことにした。今、一歳児を連れて京都駅を経由するのは気が重い。

梅小路京都西駅の近くに病院がある。山陰本線だ。最近できた駅だ。奈良線で京都まで出る。乗り換えて一駅だ。いつもの奈良線なら、稲荷で外国人観光客がどっと乗り込んでくる。今日は皆無だ。伏見稲荷大社がブレイクする前の奈良線はこんな感じだった。

京都駅は閑散とまではいかないが、旅行客が少ない。外国人がほぼいない。雰囲気が違う。旅行者がいない京都駅は、僕のような、病院へ処方箋をもらいに行くためだけに京都駅を経由しなければならない人間にとっては都合がいい。都合が良いが、何かが欠落している。

今日の京都駅にいたのは、みな、通学の生徒・学生や社会人、ようするに地元の生活者だ。旅行客ではない。旅行客とは動きが違う。荷物の大きさが違う。服装が違う。

旅行客は駅構内のあちこちに滞留する。効率的な動きをしない。通学や通勤、業務の人では考えられないぐらい長時間、京都駅に留まったりする。

旅行客にとって京都駅はハブだ。ここからどこかへ、世界的観光地であるキョウトのあちこちへ向かう拠点だ。そこに溜まっている人々はある種の熱量がある。派手な服装。巨大なスーツケース。笑い声。大声。不規則だ。

一方、日常で使う生活者にとっては京都駅は通路だ。通過するだけだ。最短距離を歩く。不必要な情報を入れない。定まった視線。無口。

旅行客のいない京都駅は何かが欠落している。人が少ないというだけではない。人の種類が少ないのだ。

今の京都駅はその実力の何分の一かしか発揮していない。日々繰り返される日常の生活と関空から流れ込む非日常の旅情が交錯し接触することで生まれる混沌。その混沌を飲み込む箱物としての器の強さ。それが発揮されていない。寂しく見える。

京都というところは第一級の観光地であると同時に生活者の地盤でもある。ほとんど不可能な相反するニーズをどうにかしようとしてきた歴史的な分厚さがある。

僕は観光地が好きだ。観光というものにエネルギーが投下されている街が好きだ。日常的な必要性のためだけではないところに資源が割かれている場所が好きだ。非効率を許容する雰囲気が好きだ。そういうところに普通に住むのが好きだ。

僕は今日、京都駅の貴重な姿を目撃したのだ。何かを書いておきたいと思った。「はるか」が車掌だけを乗せて出発した。



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