April 9, 2020

【660】禁止と自粛。「行動の制限」は見えやすく「判断の負荷」は見えにくい。

禁止は「厳しい措置」で、それに比べて自粛は「穏やかな措置」だとされる。行動の制限という観点から見れば確かにそうだ。自粛のほうが、禁止よりも選択肢が多く残されている。

が、選択肢が多く残されているということは、逆に負荷が大きい側面もある。

禁止は、物事を「禁止されていること」と「禁止されていないこと」の二値に分割する。禁止に分類された領域は黒く塗りつぶされ、禁止されない領域は白く塗りつぶされる。黒く塗りつぶされた領域は選択できない。白く塗りつぶされた領域は選択できる。

一方、自粛は、そういった分割ができない。すべての物事は、そもそもの自粛が必要になった目的に応じた濃度を持った分布となる。より自粛すべきものは黒っぽく、自粛する必要の薄いものは白っぽくなるだけで、全てはグレイだ。選択肢自体は物事領域の全体に残されているが、一つ一つの選択肢がどのぐらい黒いか白いかをいちいち判断しなければならない。

白黒二値に変換された画像と、グレイスケールの画像とを比べたときに、グレイスケール画像のほうがサイズが大きくなる。それだけ保存領域を必要とするし、表示させるのにも一々負荷がかかる。白黒に比べグレイスケールは、ファイルサイズ、つまり物事の存在様式そのものからして高負荷であり(保存容量を圧迫する)、表示に必要な演算パワー、つまり物事の判断も高負荷である(処理能力を圧迫する)。

白黒二値では、黒く塗りつぶされた領域は、そもそも参照する必要すらない。通常はその領域を選択しない。一方で、グレイでは、すべてが参照可能な状態にある。何かをしようとしたときにそもそも参照できる範囲が違うということは、何かをしようとする前から負荷が違っている。前提が違う。

一人ひとりの人間の中ですら、自粛は維持・選択(判断)の負荷が高い。さらにその上、他者との整合を図るとなると、より一層の負荷がかかる。自分にとって、OKなグレイが、他者にとってはNGなグレイでありえるからだ。この調整にも多大な負荷がかかる。ある一つの物事のグレイ判断を変えることは、自分にとってのすべての物事領域に渡っているグレイ判断を変えることにまで響いてしまうからだ。他者との整合を進めることによって自己内部の整合をも変更を迫られていく。

もちろん、繰り返すけれど、行動の制限という観点では禁止のほうが「厳しい」のは間違いない。ただ、その行動を起こすための判断の段階では、禁止はほとんど負荷がなく、自粛は負荷が高い。

何もしていないのに何故か疲れる。何かをしようとするだけで疲れる。そういうことが起こりがちになる。

負荷の高い判断プロセスに常時さらされているから当然なことで、そういうときは少し休んだほうがいい。「何も現れていない」ように見えて実はたっぷり仕事をしている。現れたことだけが全てではない。

そして、そのような一見すると実りの少ない「見えない仕事」は、前提に対する働きかけであって、ずっとあとになってから大きな成果をもたらしてくれることがある。



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