July 23, 2018

【439】新井紀子『AI VS.教科書が読めない子どもたち』を読んで

新井紀子『AI VS.教科書が読めない子どもたち』が面白かった。

例えば、AIは以下の二文の(構造的な)意味の違いが読み取れない。

・先日、岡山と広島に行ってきた。
・先日、岡田と広島に行ってきた。
(169頁)
また、

・警報機は絶対に分解や改造をしないでください。
・未成年者は絶対に飲酒や喫煙をしないでください。
(125頁)
の構造的な違いが読み取れない。ということは、たぶん、

・ファッションモデルは太らない。
・こんにゃくは太らない。
の違いも読み取れないだろう。

また、AIには以下の二文が同義であるかどうかの判定が難しい。

・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。
(205頁)
同じ名詞がほぼ同じように並んでいるからほぼ同じ意味の文ということになってしまうようだ。助詞や受動態は無視しているのだろう。

ちなみに、次の(   )を埋めるような問題は逆にAIは得意である。

・幕府は、(   )年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。

こういう場合AIは、「幕府」「ポルトガル人」「追放」「大名」「沿岸」「警備」で検索をかけて、合致度の高い例文を特定し、その文中にある「〇〇年」という該当部分を見つけ出してくるというやり方をする。この場合、助詞や態は無視しても問題ない。

こういった、文章をぶつ切りにして名詞要素を検索キーとして取り扱うだけの「表層的読解(意味理解を伴わない読解)」でも、AIの記憶力と計算力(総当たり的比較力)を持ってすれば8割ぐらいの現役受験生より入試で点が取れてしまう(東大は無理だけど学部学科を選べばMARCH関関同立に合格できるレベル)というのだから、なかなか衝撃的である。

AIは、文章全体の意味を読み取るみたいなこととは全く異なることをやっている。のだけど実は、そもそも人間が文章を読んで意味を理解するということがどういうことなのかは、まだ解明されていない。だからそれを数学的モデルとして取り扱うことなんて夢のまた夢で、今は単に工学的な力技で片っ端から例文と比較して重み付けでやるしかないし、せいぜいその効率的な比較法を開発するか、例文の量を増やして「精度を上げて」いる。

ここから導かれることとして本書は、人間が手に入れる読解力として表層的読解がいくらできても、いずれAIに取って代わられるだろうと予測する。だから、AIが苦手とする「深い読解」 の方に希望があるのだけど、どうやら人間(中高生)もAIと同様の傾向があることが調査でわかってきた。AIが得意なタイプの読解はできるけど、AIが苦手なタイプの読解ができていない。

中高生しか調査してないので「子どもが」「読めない」という話になるけれど、教育方法は大きくは変わっていないので、現状の大人も当然そうだろうと。

もっとも(これは書いてないけど)ある程度以上の高齢世代であれば、AIの進歩速度に対して逃げ切れるだろう。だからいずれにせよ、注力するとしたら若年世代ということになると思う。

終盤。

AIが得意な読解も苦手な読解も含んだ基礎読解力(中学の教科書程度の文を読み取れる力)を養うために、著者は、「処方箋は簡単ではない」がと前置きし、

もしかすると、多読ではなく、精読、深読に、なんらかのヒントがあるのかも。そんな予感めいたものを感じています(246頁)

と書いている。

自ら検証したことをもとに大胆かつ明確に断言していくこの著者の文体にしては、この部分だけ、非常に控えめな表現になっている。「予感めいたものを感じています」。

確かに証拠を挙げにくいことではあるのだけど、この「精読、深読になんらかのヒント」あたりについて、僕たちがここ何年かやっている、読む・書く・残す探求ゼミや講読ゼミと、かなり関連があるのではないかと思う。なぜならここを僕たちは何度も確かめてきた。

書かれているものを、予め自分が持ってしまっている言語ネットワークに当てはめるように読むのではなく、読み進めることで自分の言語ネットワーク自体を動的に変化させていくような読み方。

力の比喩で言えば、

簡単に腑に落としてしまわないで、書かれたそのままを保ち続ける(保留する)筋力。

こういった、一般に「理解」と言われているものとはニュアンスの異なる状態が、〈読解〉に、〈理解〉に、〈意味〉にむしろ深く関わっているのではないかと思っている。

こういうあたりのことを僕はこれからもやっていきたいし、せめてもう少しうまく言えるようになりたい。

July 19, 2018

【438】ルソー『告白録』読了。この天才駄目人間は魅力的だ。


文庫本3冊。なかなか読み応えがあった。

後半、こんな展開になるとは。序盤の青春青春してたのと全く違う。当たり前といえば当たり前だけど。

しかし、ルソーってこんなにも迫害されていたのか。幾度となく退去命令を出され、転々としていた。そんなにも国家や教会に憎まれていたのか。

ルソーが「自然に帰れ」ということの意味やニュアンスはとてもよくわかった。もともと自然人であるというわけではなく、人づきあいに求める友愛の純度が高すぎて、それに見合う人間などいないから、打ちひしがれて「帰る」先として自然があった、と。でも、ほんとはものすごく人が好き。

それにしても、この告白を読む限りルソーが独学だったというのには驚いた。一人の独学の変人が、結果的に、フランス革命を準備し、ヨーロッパを近代へと押し出したわけだ。

どうやらルソー、僕はかなり好きだ。

恥ずかしながらちゃんと読んだことがなかった「人間不平等起源論」「社会契約論」。
早速読もうと思う。

July 16, 2018

【437】カラーボックス一個からできるガレージセール。

カラーボックスに不用品を並べるだけのガレージセール。

看板を作って、

棚に値札を貼って、一番上から「1個50円」「1個100円」「1個300円」「1個500円」。

物を入れておく。


代金入れは空き缶。

これで、ぽつぽつ売れる。

夜に散歩している人がいたり、早朝に散歩している人がいたりするので、基本的に24時間営業。メインターゲットは散歩している人。

雨が降ってきたら大急ぎでカラーボックスごと撤去する。

いろんなものをごちゃっと並べるより、同じようなものを集めて並べると良いみたい。時々商品替えもする。

こういうことを自分の家の前でやっている人を時々みかけるけど、例外なく面白いしワクワクする。

メルカリで売れてもメルカリが流行るだけ。家の前でガレージセールをやると、売れても売れなくても興味を持ってもらえる。そのうちイベントにも来てくれるかもしれない。

July 15, 2018

【436】Tシャツは夏向きではない。

うすうす感じていたけど、もう確定事項にする。

Tシャツは夏に着るものではない。

上半身のうちの「ここだけはきっちり保温しましょう」という部分をしっかりガードしている。その上、首周りが肌に密着していて風が通らない。

Tシャツの時期は、気温が低いけれど寒いとまではいかない時期。陽射しが心地よく肌に感じられる時期。それでもちゃんと体幹は保温する必要がある時期。

つまり春、秋である。

もう明日からTシャツ着ない。夏の間は着ない。暑いだけだ。

夏は甚兵に限る。

July 14, 2018

【435】コミュニケーションは、〈私〉と〈私たち〉の問題。

興味深い記事。
「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく

この論考から「だから対立が重要なのだ」という方針を取り出したとしても残念ながら、対立は円滑の補完でしかないから、新たな別の円滑が生み出されるだけだろう。

コミュニケーションを「円滑か対立か」という二項対立として捉えるところから矮小化ははじまっている。二項対立はすべて「内部と外部」の問題だと喝破した(と僕は読んだ)デリダを思い出す。ウチかソトか、でしかない。

しかし、Twitterなどの比較的ランダムな「現代的交流サービス」ですらむしろ、より強く円滑か対立かに単軸化されている。想定していなかった結びつき(誤配)や想定しない一方的な送りつけ(散種)ももう、この軸から逃れられないのかもしれない。

さて、この問題を言語的に〈セット〉してみよう。

まず、コミュニケーション、コミュニティ、コミュニズム、といった西洋語の同語群による問題系は、それほどまだ僕たちには身についているわけではないのではないか。明治以降150年ではこの段階ということなんじゃないのか。

歴史的に他者移入にさらされ続けた僕たちのやり口。まず遠目に見て見ぬふりをしつつ、遠回しにして、やがて馴染み親しんでいくという時間を使った〈保留〉のやり口。アイスブレイクが即時的な建前に回収され、時間のかかる本音のレベルに到達しない、そんなやり口。

その上に被さってきた「コミュ(com)たち」。コミュニケーション、コミュニティ、コモン、コメント(評言)、コマース、カンパニーなどなど。「コミュ障=com障」とはよく言ったもので、これら全般とその大元の未消化を表している。明治とはつまりcom同語群の集団的外来と言えるのではないか。

〈com〉と〈共に〉ということ自体からして、僕たちは西洋語と異なっている。僕たち日本語の他者の概念には時間性が組み込まれている。この時間性は、どれだけの時間一緒にいるかということ以前に、順序としての時間である。集合的である〈前に〉個的であるという〈順序〉がある。個的であることの後に〈ともに〉が来る。個的であることが「コミュニケーション」の土台である。

〈とも〉は「共」だけでなく「友」を伴っている。友が友であるためには、私が私でなければならない。〈私たち〉はあくまでも「私+たち」であり、〈我々〉はあくまでも「我+我」である。〈I〉と〈we〉のような別種の言語的ニュアンスをもたない。

〈私〉があってはじめて〈私たち〉がある。

と、少なくとも日本の、明治以降に文学的に作られた〈標準語〉で考える限り、西洋語との乖離、西洋との乖離は必然だし、この乖離によって引き起こされた不安と不安定が、ウチとソトという強力な二項対立系に回収されてしまうのは仕方のない成り行きかもしれない。

だから?

と言われてもなかなか難しいのだけれど、いずれにせよ、現代日本の問題を見るときに、現代日本語は糸口を提供してくれる。

つまり、comの問題系は、〈私〉と〈私たち〉との間に横たわっていて、〈私〉が〈私たち〉と言うときにcomの問題系は立ち上がる。現代日本におけるこの手の一切合切は、「私とあなた」という二項対立として取り出すのではなく、「私と私たち」あるいは「私や私たち」といった言語の領域に再セット(リセット)できるはずだ。

問題を、言語から取り出して分離するのではなく、言語という土壌へ埋め戻すことで何かが芽吹くかもしれない。そういうやり方があると僕は思っている。

July 13, 2018

【434】音読へ行こう。

音読合宿、近づいてきました。

〈講師〉のけんちゃんのブログから、関連エントリー2つ紹介。
音読合宿のご案内音読とピアノと絵本
音読についてこれだけの文字数で何かを書くということ自体、なかなかできることではないわけです。こういうことは何についても言えるのかもしれなくて、それはつまり、けんちゃんのブログから借用すれば、
齋藤孝さんが昔、「教え力」という本で教師のもっとも根幹をなす力は、それそのものが大好きなのを生徒に見せることだ、と言ってましたが、これは本当にそうなんじゃないかと思います。ぼくなりにその意味を咀嚼すると、膨大な時間をそのことに投入して、伝えるのに余りあるくらいいろんなことを考えた経験、ともいうようなもの。 (音読とピアノと絵本
です。

ここで、自分が膨大に何かを費やしてやっていること、というのが例えば、国語や算数、絵や音楽といった、すでにこの世に存在する明示的な場所でドンピシャに言い表すことができるのであれば、実はそれはとても幸運なことです。

多くの場合、自分が一体〈何に〉注ぎ込んでいるのか、それ自体がはっきりせず、その〈何〉を探し求めてさまようことになります。自分は何にも興味はない、何にも注ぎ込んでいない、という人も、実は、注ぎ込んでいる何かが明確でないという可能性があるのです。その場所を抽出する言葉を見出していないだけなのかもしれません。

〈音読〉も、取り出された「あと」には、ある一つの場所を形成しますが、取り出される前はただ、一つの行為です。あえて言えば、取るに足らない行為です。
で、以前のぼくもそうだったんですが音読ってちょっと気恥ずかしい。というか、苦手というか、読むのも聞くのもそれほど好きじゃないというか、まあほとんど嫌い、なんじゃないかと思うんです。大抵の人は。(同上)
しかし、そこに注ぎ込まれている膨大な何かを基礎にして示された〈音読〉はもはや、一つの行為であることを越えるとともに、それまではなかった場所を持ち、さらにその場所すらも越え出ようとする運動性が備わります。溢れ出るように。

こういうことってとても重要だと思っています。とてもワクワクします。ワクワクするということそのものです。

試して、繰り返して、面白がる音読三昧の30時間合宿

July 12, 2018

【433】古川真人「窓」。話法について

せっかく「新潮7月号」を買ったのだから、目当ての『NŌ THEATER』以外の掲載作もぼちぼち読む。古川真人「窓」。

おっ!と思ったのは、「目が見えない兄」の浩とその友人たちが自宅での飲み会をしているときの会話。主人公の弟・稔はそれを少し離れた換気扇の下でタバコを吸いながら聞いている。
「いや、お菓子がそういえば、ここにあったなあ、と思って取ろうとして手を伸ばしたんだけど、もう空だったからさ、あ、もしかしてお酒がこぼれちゃった?」と〈わだっちさん〉は言う(概して浩とその友人たちは説明的な口調で話すのだった)。「黒川さんも、もう三十歳って言ってたから、ちょうど年齢的にもお似合いだよね」
「黒川さんってもう三十歳になってたんだ! 最初に会ったときは……」と言うのは、〈わだっちさん〉の横に座る男だったが、彼は体格の良い他の友人ふたりと比べて小柄で、座る者たちのなかでも一番年下のように見えた。
「ええと、まずはぼくとマルちゃんが二〇〇七年にホームページで知り合ったはずで……」と浩が片方の目のまぶたに、握った右手を押し付けるようにして言う。
僕自身の全盲の人との会話(それほど多くはない)でも、特徴的な「口調」というべきものは感じていた。が、それはその人固有の喋り方だと認識していた。しかし、ここに書かれているセリフは、その会話で僕がその人の特徴だと思っていた喋り方のニュアンスを非常によく捉えている。全盲かそれに近い人は「概して説明的な口調で話す」と一般化できるのかもしれない。

目が見えないことと「説明的な口調」はどのように関係するのだろうか。それとも関係しないのか。あるいは、視覚と記憶はどう関係するのか、しないのか。

口調に関して言えば、この作品にはもう一つ特徴的なことがある。
彼ら兄弟は関東に暮らすようになってから長いというのに、ふたりだけで居るときには、いつも使い慣れた九州のことばで話すのだった
この小説において「九州のことば」で表現されているのは兄弟の会話だけではない。
たしかに自分の頭のなかだけならば、あらゆる事柄がどのようにでも結び付けられるものだと理解しながら、しかし、胸のうちで言うのだった。《うんにゃ、たしかに結びつくよ。だって、全部おれがいやだったんやけんさ。この三つは、なんもかんも、浩に見せたくない、いやな世界ばっかりやもんな》
といった主人公・稔の内的独白も「九州のことば」が使われている。

九州で育った人が関東に出てきて、他人と話すときには標準語を話し、九州出身者の兄弟同士では九州のことばを使う。ここまではたしかにそうだろう。しかし「胸のうちで言う」ことばが九州のことばであるのは、自然だろうか。

というのも、僕自身はそうではないからだ。

僕以外の人がこの主人公のように「胸のうちで」話す言葉が生まれ育った地元の言葉である可能性は高いので、小説に対する批判ではない。ただ、僕にとっては大きな問題となる。

僕は、乳児の頃から高校卒業まで関西で過ごしているネイティブの関西弁話者であり、関西弁が母語である。しかし、不思議なことに、物事を考えるときに心的に発する言葉は標準語なのだ。

僕にとって関西弁は「口をついて」出てくるものであり、「口」を経由しない場合、関西弁にはならない。やろうとすると、かなり意識的な発声になる。

「口をついて」出てこないような状況というのは、例えば周りに関西弁の話者がいないときだ。この場合、一人だけで関西弁を話すことはほぼできない。無理やりやっても、本当にそれが自分が地元にいるときに使っている僕自身の関西弁のイントネーションなのか確信を持つことができない。自分で発声しているにもかかわらずテレビや映画から流れてくる関西弁のように聞こえてしまう。だから、自分で話しているという意識にはならず、それまでに聞いたことがある誰かの喋り方を真似している気分に近い。

これと同様に、心的な発声でも、つまり内的独白が「独白」である以上、僕は関西弁で話すことができない(難しい)。

もちろんこの話がおよそ辻褄の合わないものであることは自覚している。

例えば、僕が標準語を〈話せる〉ようになったのは18歳で関東の大学に入学した後である。では、それまでの僕はどのように心的に発声していたのか。それは関西弁以外にあり得ないのではないか(それ以外の言語を習得していないのだから)。となると、ある時点から内的な発声の言語が標準語にすり替わったということになるのか。あるいは、僕が18歳で標準語を〈話せる〉ようになるまでは、内的な発声をしていなかったのか。それが、標準語を〈話せる〉ようになるとともに、内的な発声の言語も獲得したのか。

僕にとってこれはとても興味深い問題で、現時点で答えが出ているわけではないが考える糸口らしきものは見つけている。それは「読むこと」なのだけど、まだここに書ける段階にはない。いずれ、どこかでまとめてみたい。その過程でひょっとすると「目の見えない人」たちの「説明的な口調」にも接触があるかもしれない。

July 11, 2018

【432】『NŌ THEATER』の戯曲を読む

ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』の戯曲が載っているというので新潮7月号を買う。

戯曲はこんなふうに始まる。
  舞台は東京の地下鉄のプラットフォーム。 
能「六本木」
 男(シテ)かつて投資銀行の証券部門で勤務していた男
 青年(ワキ)
 駅員(アイ)
 地謡 駅員と一人二役 
  青年登場。 
青年(次第)
 世の中は、僕に対する需要はない。
 世の中は、僕に対する需要はない。
 暇だけは、だから有り余ってる。
能の形式の現代文を読むというのがなかなか面白いことだ、ということに気がつけただけで大きい。買ってよかった。岡田利規さんは「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10」で能、狂言の現代語訳を担当している。以前本屋で見かけたのだけど、もう一歩乗り切れなくて買えなかった。今度は買おうかな。

『NŌ THEATER』を観ているときに、能について、なるほどこういうことだったのかと気づいた点がある。

 接点のない振りをしたままでいることは、容易にできる。
 難しくもなんともないだろう。人によっては。しらを切り通す。
 そのほうが私にだってほんとうのところ、都合がいい。 
地謡
 けれども私と君には接点がある。実のところ。
 私が犯した罪、
 希望のない若さという残酷な事態を生み出した罪によって、
 私と君はつながっている。 

 私の罪。
 いや、これは決して私の罪ではない。私だけの罪ではない。
 あのときの私には為す術がなかったのだから。
 ただ手を拱いているよりほかは。 
地謡
 だから君を呼んだのだった。
この地謡が男(シテ)のセリフを代弁するところ。男は地謡と対話しているわけではなく、青年に話しかけている。その男のセリフの一部を地謡が担当している形になっている。

(伝統的な)能でもこういった地謡はもちろんあって「主人公の心の中を謡ったり」すると説明されている。のだけど、なんでそんなことをするのだろうと思っていた。

現代的なリアリズム表現の感覚では、物語の主人公の内的独白を主人公がそのまま口にするのは物語の進行上好ましくない。だから語り(ナレーション)を別に入れたり、当人の声であっても明らかに内的独白だとわかる演出で喋らせたりする。

しかし、能のような形式的な表現では、さほどの違いはないのではないのかと思っていた。地謡に言わせずに自分で言えばいいんじゃないのかと思っていた。あるいは、自分で言うところと、地謡が言うところに分離させるのであれば、その分離の基準はいったいどこにあるのだろうという疑問があった。

たとえば、引用した部分すべてを男のセリフ(モノローグ)としても意味上は問題がないではないか。理由があるとしたら、掛け合いとすることでテンポを良くしていることぐらいではないか。

ようするに、僕は能というものをあまり理解できていなかった。

それが実際に舞台を観て、なるほどこれは「自分で言わない」ことの効果を狙っていると気がついた。自分で言うのではなく「他人に言わせる」、「地の文で書く」その効果。

いじめっ子のリーダーが黙って腕組みをし睨んでいる。その背後で取り巻きが「お前みたいなやつは……」と囃し立てるあの構図。あるいは、中世以前の王が、話し相手が目の前にいるにもかかわらず、側近にだけ話し側近が王の言葉を「王様はこうおっしゃっている」と代弁をするあのやり方。喩えが悪いのは許してほしいが、とにかく「自分で言わない」効果があるのだ。

主体的な内容の言葉であっても、他人が言うことで、主体の限界を超えて、「客観」的に響く。他者を経由することで、梃子が働いて強化される声。拡声器のように「通常の〈一人の人間〉の声」を超えている。

あと、会話のテンポに関連して言えば、意味的にはモノローグであるはずが、形式上は半ばシテと地謡との対話になっている。そのために、話し手がシテ・地謡と代わってもずっとシテの言い分(番=ターン)が続く状態になって、捲し立てていく効果もある。この間、ワキはただ黙って聞くしかない。観客もまた、それを浴びる。

July 10, 2018

【431】阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』を読む

「ものしり宣言!」というコピーで、
本を売ろうとした時代があったというのも、
もはや神話的事実。
ギリシア神話好きの阿刀田高が、複雑に絡み合った複合的神話をわかりやすく読みやすく紹介してくれている。この手の紹介本は自分では買って読まないが、実家を片付けていたら見つかったので読んでみた。『ギリシア神話を知っていますか』。

古代ギリシアは西洋文化の基礎的地盤で、現代でもあちこちにその断層が現れている。ハイデガーを代表に、西洋哲学を読んでいれば必ずここに突き当たる。

トロイア戦争、パンドラ、オイディプス、オデュッセウス、ペネロペイアなどなど、一応は知っている固有名が整理されている。それらの神を含む人間の系統関係、都市の位置関係など、物語のあらすじを追うことで復習できる。

興味深かったエピソードはやはりオイディプス。このエピソードは他と比較してもよくできている。阿刀田のよくまとまったあらすじをさらにあらくまとめると、
テーバイのライオス王が「男児を得るときは、その子が父を殺すだろう」という神託を得る。生まれた子、オイディプスを山に捨てる。オイディプスは隣国の王の子供として育てられる。オイディプスも「故郷に帰ってはならぬ。お前は父を殺し、母を娶るであろう」という神託を得る。悩んだ末に、故郷だと思っている道とは逆の道を行く。その道すがら、老人と諍いを起こし、老人を殺す。それがライオス王。つまり父だが、名乗らなかったのでオイディプスは知らない。逆の道を行ったことで本当の故郷であるテーバイにたどり着く。やがて、亡きライオス王の妻で王妃イオカステを娶り王となる。それが母であるが、これもオイディプスは知らない。王になった後、テーバイに次々と災いが起こる。神意を伺うと「先王を殺し、人倫にもとる行為を犯したものがいる。その者を探し出し、国外に追放しなければ神の怒りはけっして静まらない」。オイディプスは調査した。犯人は自分であった。
この、自分ではどうしようもない成り行きの緊密さは物語としてとても優れていると思う。

ペネロペイアとオデュッセウスのエピソードも良かった。ジョイスの「ユリシーズ」が、ホメロスの「オデュッセウス物語」を下敷きにしているので、ジョイス好きとして、一応参考文献でホメロス自体も読んでいるのだけど、僕には面白く読める文章ではなかった。本書はそれを作家の筆でうまくまとめてくれている。

といった感じで、期待していたよりは楽しめる本だと思って読み進めていた。そして最終章。実はこれが一番衝撃だった。

「古代へのぬくもり」と題したこの章に登場するのは、19世紀のドイツに生まれた一人の少年ハインリッヒ。
七歳になったとき、父親がトロイア戦争の伝説を話してくれた。ハインリッヒには判官贔屓の傾向があったのかもしれない。敗北したトロイア方におおいに同情し、落城の話を聞いて涙を流した。
「馬鹿だな。これはみんな作り話で、本当にあったことじゃないんだよ」
と、父が慰めたが、少年は首を頑なに振って承知しようとしなかった。[226]
19世紀当時、ホメロスが歌った「イリアス物語」と「オデュッセイア物語」は、
どちらも当時の人々に広く親しまれていたが、これが歴史上の事実を基にして作られたものとはだれも考えていなかった。[227]
夢見がちな少年は、しかし、そう考えなかった。
「こんなに大きなお城(トロイア城ー引用者)がぜんぜんなくなってしまうはずがないもん」
少年は来る日も来る日も同じことを考え、同じことを主張した。そして、最後は、
「じゃあ、ぼくが大きくなったら、きっと発見してみせるよ」[226]
と父に約束する。

数十年後、商売で築いた財を投じハインリッヒ・シュリーマンは発掘を開始する。特筆すべきは、それまで推測されていた場所とは異なる場所を掘ったこと。シュリーマンは「現実にあったこと」としてホメロスを読み込むことで、〈確信を持って〉ある場所を掘る。

結果、世紀の発見 である。

ウィキペディアのハインリヒ・シュリーマンの項目にはこうある。
ドイツの考古学者、実業家。ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘した。
もっとも阿刀田が紹介した少年時代のエピソードはウィキペディアには「功名心の高かった彼(シュリーマンー引用者)による後付けの創作である可能性が高い」と書かれていたり、不適切な発掘で遺跡が損傷しているともあって、若干興ざめではある。

がしかし、その興ざめな「実はこれこれであった」も含めて、この話自体が神話的である。本書の最後を彩るにふさわしい。

July 8, 2018

【430】コンクリートの上の花壇、3年後。

検索流入で意外に多いのが、この記事。
【160】コンクリートの上を直接、畑か花壇にしたい。
久しぶりに読んでみたら結構面白かった。一応続編もある。
【163】コンクリート上の植物。
が、ものすごく中途半端。このあとどうなったのか全くフォローがない。

というわけで、これらの記事から約3年でどう変わったかを、唐突ではあるがお見せする。

まずは1号地。当時。


ブロックで囲ってバランを投げ込んだだけ。花壇というよりもゴミ捨て場である。

それが、今は、


こうなっている。
倍以上に拡大し、青じそや唐辛子、しし唐が収穫できている。

一号地よりもさらにしょぼかった当時の二号地。


それが、どどん。


わかりにくいと思うが大幅に拡大し、通路いっぱいに広がっている。大海嘯とまでは行かないが、十分に植物がはびこっている。右側の門柱の周りに見えているのはミントで、シロップの材料を供給してくれる。3年前の二号地に該当するのは左手前の草むらになっているあたり。完全に植物に覆われている。

3年間の経過を記憶を頼りに書いておくと、一号地には、たしかコンポストの中身というか自家製堆肥をドサッと入れた。入れた当初は未完熟で何も生えなかったが、土を混ぜたりしているうちに雑草がちょぼちょぼ生えてきて、その後、唐辛子などを植えられるようになった。雨が降るたびに少しずつ土が流れ出していくが、減った分を時々足してやればブロックをおいただけでもちゃんと花壇(畑)になっている。

二号地は、薄く土をまいた。ほんとに薄く、平均すれば5ミリぐらいしか土はない。ところどころ下のコンクリートが見えている。こちらも土を入れた当初は、雨が降れば多少流れていったが、思ったよりもとどまっている。地面を這うようなタイプの草の侵食力はすごく、この薄い土壌というか砂というか小石の上でもしっかりと生きている。

結論としては、コンクリートの上を直接花壇にするという試みは成功した。なんでもやってみるものである。

ちなみに、移植したギンゴケはあっという間に干からびて跡形もない。

【429】趣味にはお金がかかるのか。趣味の自給を考える。

小さなものよりも大きなものから手を付けるというのはコストダウンの鉄則だと思う。生きていくための金銭的経費も、大きなものから手を付けるのが良い。

現代生活において最も高い経費を計上している費目は趣味である。趣味を経費削減すればいい。のだけど、なかなかそうならない。

必死に働いたんだから趣味ぐらい金を使いたい。いやむしろ、趣味で使う金を稼ぐために働いている、というわけだ。

しかし、困難なことこそ報酬は大きいし、困難なことこそ抜本的に根治的に対策を取ることができる。対策は大きい方が自由度が増える。

経費削減だなどとケチくさいレベルではうまくいかない。いっそ趣味を自給すればいい。趣味を自給するにはどうすればいいかを考えればいい。そもそも趣味だからといって何かを消費しなければならない道理はない。

本を読むのが趣味だという人は、自分で書けばいい。趣味なんだから、自分が面白いと思えばいいだけだ。他人に見せる必要すらない。褒められたり貶されたり、微妙な顔をされることもない。

旅をするのが趣味だという人は、移動を手段と考えるのをやめればいい。移動は手段ではなく、旅そのものである。徒歩でもヒッチハイクでもすればいい。知り合った人の家に泊めてもらえばいい。旅のはじめから終わりまでのあいだに起こることはすべて旅の醍醐味である。危険を伴うかもしれないが、旅が趣味だというからには、危険のない旅など本当の旅ではないとよくよく知っているではないか。

趣味がないという人は、何もしなくてもいい。何もしないのが一番である。どのみち自分の思い通りになることなど、たかが知れている。何もしないでいられるのは自分だけである。興味深いことは向こうから列をなして訪れてくる。それがわかるにようになるまで、何もしなければいい。

生きていくのが趣味だという人は、自分が興味を持った事柄について、常に根本的に考え、試し、確かめていく。これ以上の趣味はない。それこそが趣味のなかの趣味であり、もはや趣味とは言えない超越的趣味である。その視野からはすべてが趣味となり、趣味は自ずと給わる。

July 7, 2018

【428】幽霊と災害とチェルフィッチュ

案の定、昨日観たの『NŌ THEATER』の余韻が続いていて、今のうちになにか書いておきたいという気分になって、フェイスブックにも記事を書いた。ブログにも貼り付けておく。

のだけど、その前に。

今日も雨は降っている。奈良線は運転を見合わせている。フェイスブックでは誰々の「無事が確認されました」と通知が来る。

この状況で演劇を観に行き、その上感想をフェイスブックに掲載するということに対しては、微妙な、いや、かなりの自己規制が働く。ふさわしくないのではないか。顰蹙を買うのではないか。そういうことを考えた。そういうことを考えたことによって、思い出したことがある。災害に関して、ふさわしくない、顰蹙を買うようなセリフがある演劇があった。

他でもないチェルフィッチュの「部屋に流れる時間の旅」で、この演劇は「あの地震」をテーマにしている。感想をブログにも書いていた。


思っていても言えない。言いにくい。そういう状況で何かを言いやすくするということと演劇は高い親和性がある。むしろそれこそが〈芝居〉という言葉の意味なのだろう。

ついでに、もう一つ、チェルフィッチュの演劇について書いているエントリーがあった。

【035】旅はどこへ行くかではなくて、どれだけ持っていけないかだ。

チェルフィッチュはとても高い確率で僕を刺激する。

以下、今日のフェイスブック投稿。
===
昨夜ロームシアター京都のミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』を観た。

雨の中、出ていくのはうっとうしくて、下手をしたら帰りの電車が止まるかもしれない状態で、正直言えば中止にして払い戻してくれればいいのにと思っていた。

ドイツ人の役者がドイツ語で演じる現代的な話を能としてやるという幾重にも実験実験した試みだから、もともと期待値は低かった。チケットを買ったのはだいぶ前で、今になって4,500円は高いよと思い始めてもいた。

が、素晴らしかった。

今日・明日と公演は続くので具体的な内容については触れないが、能ではお決まりとも言える幽霊が出てくるパターンで、通りがかった旅人に幽霊が自分が何故死んだのかを話して帰っていくというだけのことである。それが妙に迫力がある。

(伝統的な)能は何度か観てもともと好きなんだけど、あぁこういうことをやっていたのか、と改めて能を発見した気がする。能の面白さを、現在の自分がいる世界の出来事として、フルスペックで楽しんだと言ってもいい。

アフタートークで作演出の岡田利規さんは、能のストラクチャーがものすごく良くできているから、そのまんま使って現代的な題材をやっただけと言っていた。

岡田さんの話はいつもとてもわかり易く、なんの不可解も神秘性もないのだけど、にもかかわらずとても面白い。

岡田さんは、幽霊(亡霊)を個人的な怨念ではなく「社会的でコレクティブ(集合的)な」怨念の依代と捉えている(捉えることができる)という。そう言われるとたしかに、だれでも一つ二つは社会的集合的亡霊が思い浮かぶはずだ。

「わたしの幽霊」ではなく「わたしたちの幽霊(亡霊)」。たったこれだけのワードで物語が立ち上がる。

以下、僕の個人的な興味(例によって言語や言葉の話なのだけど)。自分がどうして死んだかを淡々と説明的に話すその話しぶりが妙に差し迫ってくるのが面白かった。

説明的である、知識的である、情報的である(今回の公演のセリフはこのいずれの形容も当てはまると思うのだが)というのはだいたい「伝わってこない」という罵倒の語彙として使われるけど、そういう人に、一体何が「伝わる」のだろうと思ってしまう。予め自分の中にある情緒性を想起させ再現させることしか「伝わった」と言えないのであれば、それはどこからも何も「伝わって」いないではないか。

July 6, 2018

【427】相変わらずの「告白録」と岡田利規『NŌ THEATER』

昨夜寝る前は、1時間ほど「告白録(中)」を144ページまで読んだ。青年ルソーの融通のきかない正義感ぶりが発揮されだすのだけれど、
 私の天性をうまくえがきあらわしている場合が私の生涯にあるとすれば、つぎに物語ろうとするのがそれである。この書物の目的をあらためてつよく思いおこすならば、その目的をはたすさまたげとなるようないつわりのとりつくろいは、この際断乎としてしりぞけなくてはならないであろう。諸君が誰であろうと、いやしくも一個の人間を知ろうとするならば、どうかがまんしてつぎの二三ページを読んでいただきたい。諸君はジャン-ジャーク・ルソーなるものを、全面的に知るに至るだろう。
 私はまるで愛と美の内陣にはいるように、一人の娼婦の部屋にはいったのだ。
(ルソー「告白録(中)」巻七)
この変なテンションで引っ張られると先を読まざるを得ない。「ジャン-ジャーク・ルソーなるものを、全面的に知るに至るだろう」って。よくまぁ書けるよね。

で、朝起きると今日も一日雨。電車が止まったりしている。昼間は、キャラペイスのサイトの修正をした。スマートフォンでの見やすさがちょっと上がったと思う。

夜はロームシアター京都にチェルフィッチュの公演、ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』を観に行く。

JRが軒並み止まっているなか、ギリギリ開演3時間前の16時というタイミングで開催を決定すると言われても来れる人は少ないんじゃないだろうかとか、終わったあと帰れるかどうかも怪しいじゃないかと思ったが公演は素晴らしかった。

そう。素晴らしかった。


チェルフィッチュは好きでいくつか観てきたが、正直これは期待してなかった。だから余計にかもしれない。見事にやられた。

いやだって、ドイツ人役者でドイツ語で現代的な能だなんて、あまりにも実験実験しすぎていて、きっと微妙な見終わり感になるだろうと予測していたのだ。それが、まるっきり裏切られた。

能は何回か観に行っていて、結構好きなんだけど、今夜ようやく能の面白さをフルスペックで味わえた気がする。幽霊が出てきて、自分がなんで死んだのかを説明するというだけなのに、こんなにもドンドンドンと迫ってくる。ほんとに説明的に説明しているだけなのに(もちろん「だけ」なわけはないのだけど)。

シンプルでわかりよいにもかかわらず、幅も奥行きもある。重厚感も軽やかさもある。高貴さも下世話さも。サクサクとした歯ざわりなのに中はしっとり。全部ある感じがすごい。通俗に媚びたり、意味深に逃げたりしない贅沢さがきっちり詰まってる。

『新潮(7月号)』に戯曲が載っているらしい。買ってしまうではないか、これは。

とまあ、最上級。しばらく思い返すだろうな。

アフタートークで岡田利規さんは、能のストラクチャーはとても良くできていて、やりたい題材がいっぱいあると言っていた。今後も散財しそうである。

July 5, 2018

【426】雨とルソー「告白録」

一日雨が降っている。

晴耕雨読という言葉の現代的な魅力は、農的な暮らしや知的な暮らしを愛でる妄想的イメージにあるのではなく、「晴れたら耕し、降ったら読む」という漢字の間に潜む「たら」にある。

つまり、予定を変更することができるという選択性と変更しても大きな問題が起きないという冗長性である。「雪が降ろうが槍が降ろうがやらなくてはならない」というブラックさに対置される、余裕のある余白的ホワイトさ、これである。

そのときになって決めれば良いという切迫しない優雅な雰囲気が、晴耕雨読という言葉に輝きを与えているのだ。

などという与太話はさておき、明日は朝から奈良線が運転見合わせらしい。このところ雨が続いていて、累積雨量もかなり。ちょっと心配ではある。

で、昼間は昨日の続きで文字起こし。

連日、音声を文字に表記(representation)することにパワーを掛けているかと思えば、月末には文字を音声で表現(representation)することにパワーを掛ける音読合宿をやる。

パワーの源は皮も手作りの餃子である。ニラは庭で採れたやつ。今年はニラの生育がよくて、あと何回か餃子ができそう。

このエントリーをアップしたら布団でルソー「告白録」を読む予定。二日目にしてすでに日記の目的を逸脱しつつある。明日は軌道修正したい。

July 4, 2018

【425】読書日記開始。ルソー「告白録」

来月から「本好きが本の話をする時間・定期」をやるので、備忘録的に読書日記をつけてみる。本好きと言いながらどれぐらい読んでいるのだろう。たいして読んでないことが発覚するかもしれない。

今日の昼間は、インタビューの文字起こしをするつもりだったのだが湿度が高くてなかなかやる気が出ず、ぐだぐだウェブをうろついていたら盛大な手抜き方法を発見。

音声認識を使った「文字起こしの自動化」を3つの方法で試して比較! 夢の「寝て起きたらテキスト化」は可能なのか?(lifehacker)

Speechnotesに録音データを喰わせておけば、精度はいまいちだけど一応テキストが吐き出される。その後の修正、編集作業に入る精神的ハードルが下がる。テキストになってしまえばこっちのものだ。

晩ごはんのあとに読書。しばらく前から読んでいるルソー「告白録」。上中下の3冊組で、中に差し掛かっている。

訳は何種かあるが、ヤフオクで井上究一郎訳の新潮文庫版の三冊セットを格安入手した。

タイトル通り、私小説の元祖みたいな本。なかなか生々しくてよい。当時のジュネーブ、フランス、イタリアあたりの雰囲気が感じ取れるのもいい。今日から第二部開始。第一部青春編は、30歳ぐらいまでのエピソードが綴られている。第二部はその続き。

読もうと思ったきっかけは、ゼミでデリダの「グラマトロジーについて」を読んでいて、参考文献として目を通しておこうと思ったから。読んでみると予想以上に面白くてルソーのファンになった。過度な卑下も尊大も感じさせず、これだけ自分に突っ込んで面白く書けるのだから、ごく普通に天才である。

惚れっぽく、飽きやすく、何につけても中途半端な主人公が、いったいいつ、あの世界的なルソーになるのか、先が気になる。77ページから108ページぐらいまで1時間ほど読んで眠くなる。

July 3, 2018

【催し】本好きが本の話をする時間・定期(第一金曜夜)

【閉会のお知らせ】
2018年8月から1年間に渡って開催してきましたが、子供(0歳児)の生活時間への影響を考え、2019年8月開催を最後に閉会することにします。
本の話をすること自体は今でも好きなので、また何か企画しようと思います。
参加いただいた皆様どうもありがとうございました。

大谷隆

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本を読むのも好きだし、面白かった本の話をするのも好きで、たぶん一生やめられません。いつもだいたい身近にいる人にばかり話をしていて、いい加減辟易している気がするので、企画してみました。

面白かった本のどこがどう面白かったのか、というのはもちろんですが、そもそも本を読んでるときにどんなことが起こっているのか、それをできるだけ具体的に、実際に本を示しながら話ができたらいいなと思っています。外からは見えない、自分にだけ起こっていることを説明するのは難しいのですが、やってみようと思っています。

僕じゃない人が本を読んでいるときも、僕と同じことが起こっているのか。とか。同じこともあるだろうけど、違うこともあるんじゃないだろうか。とか。面白い本でも本によって違うことが起こっているんじゃないだろうか。とか。僕と本にまつわることを考えながら話します。

本好きが本について気兼ねなく思いっきりしゃべる時間にしたいと思っています。自分もなにか話したいという本好きの人も、そうでもない人もどうぞ。
大谷 隆

1回目(8月3日)の様子。

日 時:毎月第一金曜日、19時から21時ぐらいまで。
※早めに来て一緒にご飯食べたり、終了後泊まったりできます。(投げ銭)

参加費:はじめての参加は1,000円。リピート参加は投げ銭。

場 所:まるネコ堂(京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167)
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html

申 込: 大谷までメッセージかmarunekodo@gmail.comまでメール

注 意:猫がいます。イベント中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

<大谷隆プロフィール>
言葉の場所「まるネコ堂」代表。フリーランスの編集企画。本好き、特に小説と哲学・思想書。講座、雑誌発行など、自宅でいろいろやっています。