猫は命令してもたいがいは従わない。 単独で狩りをする。それが猫を決定づけている。 |
2 来てください。
3 来てくれますか?
4 来てくれませんか?
5 来てくださいますか?
6 来てくださいませんか?
1は命令文
2は命令文+please
3は命令文の疑問形
4は命令文の否定の疑問形
5は命令文の疑問形+please
6は命令文の否定の疑問形+please
一般に下に行くほど丁寧とされている。(4と5は入れ替わるのかもしれない。)
でも僕はこれが納得行かない。
3以降の疑問化した命令文は、僕自身もつい使ってしまうから余計に嫌なんだけど、なぜ使ってしまうかという理由は、だからとてもよくわかる。
疑問形にすることであたかも相手側の意思を尊重しているかのように見せかけて、自分の居所を隠している。自分の居所を明確にせずに相手の意志を確認しようとしている。
命令したからといって相手がそれに従うかどうかは本来は不明である。命令が絶対であるためには、命令が発せられるより前に命令者と被命令者に絶対的な立場が生じている必要がある。
この時、命令に従うことで生じる結果について、命令したものが責任を取るという構造が成立している。命令されたものは、その命令の結果起こったことに対して「私は命令されただけです」と言える。
つまり命令文を疑問形にするのは、命令者が本来負わなければならない責任を回避しつつ、同時に命令者の欲求を満たそうとするやり方である。
「私は来いと命令されただけです」に対して、
「僕は来ませんかと尋ねただけで、来いとは言っていない」と言い逃れる余地が予め生じている。
これはずるい。
支配関係がない他者に対して、結局のところどう言えばいいかというと、
しかるべき時が来たのなら、
自分のすべてを投げ出して1の「来い」もしくは2の「来てください」と言う。
しかるべき時が来たのなら、
自分のすべてを投げ出して1の「来い」もしくは2の「来てください」と言う。
これができた時、僕はとてもほっとする。
自分の意志が自分で確認できた。
たとえ拒否されたとしても、この意志は相手に伝わっている。
それが何よりなことである。
でも、こうやってブログに書いてしまうと、僕がそういうことを考えて疑問形命令文を使っているということがバレてしまう。
つい、そんなことを考えてしまうのも自分を隠しておきたいということの現れである。