February 14, 2015

【078】「お茶の間」と茶の間。テレビ論。

床の間の痕跡。
ここに軸をかけていたこともあった。
昨日の「テレビを「持たない人」のダイアログサークル」は面白かった。その勢いで、テレビにまつわることをまとめておこう。

テレビというものが僕の生活から無くなって、かなりの時間が経つ。いったん無くなったテレビを、「無い」というところから再構築してみたら、実はなかなか面白いものだと改めて思う。なお、この「無い」というところからの再構築は、ぱーちゃんの言う「触り直し」と同義である。

「お茶の間」という言葉があって、現代の用法ではほぼ「テレビを見ている家族の居る空間」という意味で使われる。

リビングルーム、居間、といった程度の意味であっただろうこの言葉を、テレビの制作者が、テレビを見ている視聴者の状況をやんわりとしかし、かなり固定的に規定しなおした言葉だと思う。「ただ居る間」ではなく「テレビを見ている複数の人が居る間」と。

この「お茶の間」に向けてテレビの制作者は、何かを送り込む。蛇口をひねれば水が出てくる水道のように、テレビをつけるとそこから何かが出てくる。テレビもインフラの一種で圧力を伴って何かが送り込まれるパイプである。

水道が水という均質なものを送り込むのと比較して、テレビは非均質で得体のしれないものを「でろんでろん」と送り込んでくる。水道が均質ゆえに信頼を与えるように、テレビは非均質ゆえに期待を与える。

そもそものお茶の間は、おそらくその名の通り、茶の間、茶道の茶室だろう。

茶道の茶の間(茶室)という認識は、主人と客によって共通する「茶の間」のイメージによって成立している。

このイメージを成立させるための物質的存在、つまり「形(かたち)」として、茶室や茶道全体で使用される道具とそれらが使われるある様式がある。

形があれば、即座にそれだけによって茶の間が出現するかというと、そうではなくて、その形によって共有される主客の人の中の、あくまでもイメージが「茶の間」であって、このイメージが無い状態の形は、ただのそういう物と様式ということになる。

テレビは、この茶室でいうところのもろもろの道具や様式という形を一手に引き受けた。「お茶の間」を成立させるための圧倒的な形である。茶室で言う掛け軸がわかりやすい喩えになるけれど、それだけにとどまらず、ありとあらゆる「お茶の間」の作法を自然発生的に生じさせる道具と様式である。

不均質な何かが次々と送り込まれてくることに対して、気を取られ、共感し、反感を持ち、批判する、つまり、ノリ、ソリ、ツッコミを入れるという作法を共有する場として「お茶の間」は発生する。イメージとしての「お茶の間」までもを共感的強制的に発生させることができる装置としてテレビは機能する。

「お茶の間」が、茶の間と異なり、強制力を発生させる源は、テレビというものがインフラであることに由来する。外部と接続し、外部から送り込まれてくる。この時「お茶の間」では、茶の間と異なり、主(あるじ)が仮想的にテレビの向こう側に移っている/映っていることになる。

このことは、主が居ないことでフラットな場を出現させることにもなる。このフラットさが、そこに居る者同士の緊張と対立を回避する役割を持つ。「お茶の間」が「団欒」の場であるのはそのためだろう。

街頭テレビがあることで、そこに集まる人が互いの緊張と対立を回避しつつ、同じ場を共有できるのも同じ原理が働いている。

同じ原理を持つものに、川の流れ、焚き火の炎、体の周りを吹き抜ける風などがある。そういう「流れているもの」がある場では、他者と対立と緊張を回避しつつ居ることがしやすい。

テレビはくだらないとも思うけれど、同時にテレビはそれが成立するだけの根源的な原理に根ざしてもいる。他者との対立と緊張の回避が強く求められている限りはテレビは死なないし、死んだと思っても形を変えて蘇る。

そしてもし、他者というのが現在の瞬間の自己以外であると気づいてしまうと、つまり過去と未来の自己をも他者に含まれてしまうのだとすれば、この対立と緊張は容易に回避できない。その時、対立と緊張の回避策としての自己の一時的喪失を欲求するとすれば、facebookやtwitterは、とても「居やすく」「癒やす」装置となる。


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