使わなくなった物を家の前に「落ス」と神のもの(無主物)になって、 それを誰かが神からの授かりものとして拾う。 |
比較的大きなプロジェクトで、あと数時間で数百万円を集めないと、というような状況から一気に目標額を突破してとても興奮した記憶がある。しかし、その後すっかり忘れていて、今回返金のメールが来てちょっと考えた。
返金に至った理由などはメールにきちんと書かれていて、それに対しては異議はない。プロジェクト自体がとても大きなもので、今回の資金調達はその第一歩にしか過ぎず、成立してもきっと大変な道のりだろうと思っていたし、でも、うまく行ったらいいなぁと思っていて、それは今でも全く変わらない。返金するべきかしないべきかという議論もする気がなくて、プロジェクトの代表の決断をそのまま支持する。
今回書くのは、だから、このプロジェクトに関してではなくて、「寄付」という行為についてだ。
と書いておいて、そもそものところを確認しておくと、READYFORは「寄付」を募るサイトではない。「インターネットを介して不特定多数の個人から資金(支援金)を集めるサービス」である。
だからこれから書く「寄付」に関することとREADYFORはあまり関連がなくて、単に考えるきっかけにすぎないのだけれど、全く関連がないというわけでもない。
それで寄付について。
僕にとって寄付というのは寄付した瞬間に完結する。
「少しでも力になりたいと思わせてくれる」という心の動き、それに対してお金を出しているのだから、その時点で僕の気持ちの中ではすでに「対価的なもの」は受け取っている、という認識である。
だから、寄付のあと、繰り返しお礼されたり、その後の報告をされたりというのは、僕にとっての寄付という行為には含まれていない。
寄付をされた側がお礼や報告をすることがおかしいというのではなくて、そうしたければすればいいのだけれど、僕にはそれは「次の(再)寄付への活動」という感じがする。すくなくとも僕の側に、お礼はもちろん、報告を請求する権利のようなものはない。
こう書くとある種の「潔さ」と見えるけれど、裏を返せば、自分が寄付した活動がその後どうなったのかに関心を持たないわけで、これは褒められた行為ではないという「主張」も成り立つ。
団体はお礼をすべき、報告すべきで、寄付者はその後も団体や活動に気にかけておくべき、という主張と、僕の「寄付は寄付した瞬間に完結する」という感覚との違いはどこからくるのだろうか。
そのヒントは「落ス」という言葉にあった。
『ことばの文化史[中世1]』(網野善彦・笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤慎一編)によれば、中世の「落ス」の使われ方は現在と少しニュアンスが異なっている場合があるという。
「田畠・屋敷地・作毛など、本来的には「落ス」ことのできないものを没収・奪うなどの意味で一般的に使用している」[51]。
あるものの所有権が移る際に「奪取る」と「落取る」という2つの言葉が使い分けられており、「前者がAの所有からBの所有へ所有物を連続的に移動させるのに対し、後者は、その所有の移動の間にいったん落ちた状態のものにする過程がふくまれていた」[54]。
その「落ちた状態」とは何を意味するかといえば、「「落ス」の本質は、ある所有物を所有者の手から完全に切りはなし、神のもの、すなわち誰のものでもなくする、「落しもの」にすることにあった」[54]というのだ。
僕が寄付の際に感じるのは、この「落ス」そのものだ。
いったん無主にする行為が間にあるために、それを「拾った」側との関係がすでに「切れている」感覚がある。だから、今回のREADYFORのプロジェクトに関しても、それを「拾った」側に関与したいという気持ちはわかない。
最初に書いたように、僕は出資したのではなく、「寄付」したつもりでいる。
自分のお金を「神のもの」とすべく「落シ」たいという欲求は、あくまでも対象である団体や活動が僕に訴えかけてくるからだけど、だからといって、その団体や活動の出資者(株主)としての責任や強い関係性を持ちたいというわけではない時に、この神の領域を使ったお金の移動はうまいやり方だと思う。
「落ス」ことで、いったん神のものにするというこの了解は、捨て子・拾い子の風習にもつながっている。子どもを育てることができない親が、その親の悪条件が子に移らないように「自分の子であるという関係をいったん「落ス」ことによって切り、拾うことによって新しく神から授かったものにする」[56]のだ。
僕は僕の発する言葉にもどこかこの「落ス」感覚があり、それは無責任とも言えなくはないけれど、直接相手に対していう言葉でなく、場に対して、ひいては世界全てに対して発する言葉は、それを誰かが拾うまでは無主のものという気がしている。
この文章もそんな風に落としてみる。