January 30, 2016

January 28, 2016

【271】今年の冬はブランケットを導入。

去年はハクキンカイロを導入した。今年も活躍してくれている。火付が悪くなってきたので火口を交換したけれど、そもそも火口は消耗品らしい。オイルを補充しながら使うのが楽しい。

ハクキンカイロ PEACOCK(ライター...
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価格:3,180円(税込、送料別)

そして今年は防寒にブランケットを導入した。布団サイズの半分のやつが使いやすい。腰に巻いたり肩に羽織ったりする。そういえば父親がよく使っていたなと思って実家を探したら2枚出てきたのでそれを使っている。一枚はあちこち虫食いの穴があった年代物っぽいやつ。もう一枚は比較的新しそうだ。

January 27, 2016

【270】そこはかとなく、面白く。

そこはかとなく、って面白いなぁと思う。
そこはかとなく、っていう言葉自体がそこはかとなく面白い。
僕が好きなタイプの面白さだ。

January 26, 2016

【269】円坐とは何か。現時点での試みとして。

まるネコ堂で開催する円坐の案内文を主催者として書きながらいつも思っていることがあって、それは、僕の案内文をいくら読んでも円坐そのものを知らない人にとってはフラストレーションが溜まるよね、と思っています。それが解消すべきものかどうかは置いておいて、実際にそう思う以上は僕なりに書き記してみたいとも思っていて、現時点として試みます。

January 25, 2016

【268】天気予報を見てたじろいで庭の水道をちょろちょろ出しておく。

京都府宇治市の明日の天気予報が最低気温−6.3℃と言っていて、ホントかよと思いながらも、庭の水道の蛇口からちょろちょろと水を出しておくことにした。水道管破裂なんてことになると目も当てられない。室内のはまぁ、いいかと今は思っているけれど、怖くなってきたらこっちもちょろちょろやるかもしれない。

【催し】2月11日の小林健司の円坐 案内文その2

2月11日の「まるネコ堂 小林健司の円坐」に、
守人のけんちゃんの案内文が届きました。

カール・ロジャースがはじめたカウンセリング手法である
エンカウンターグループと呼ばれていたものからは、
ひょっとすると遠く離れてしまったのかもしれません。
でも、確実なのは、
けんちゃんが見ようとしているものは
一人ひとりの人間そのものに他なりません。

今年はまるネコ堂で円坐、たくさんやろうと思っています。

===
今年はじめての円坐の案内は、大谷隆さんが書いてくれたものになりました。

ぼくが円坐で見ようとしているのは、「言語」です。
「言葉」ではなく、「言語」としているのは、
大谷さんが案内文に書いてくれているように、
沈黙や言葉にならない身体的な感覚も、
発する人のこれまでの人生も、
言葉自体が積み重ねてきた歴史も、
「言語」の中にふくまれているから。

もちろん、
そんなとてつもないものを完璧に見渡すことは難しく、
だから毎回「見ようとして」は、
じぶんがどれほど見えていないのかを痛感しています。

それでも、なんとかかんとか見ようとして見えた景色は、
世界で唯一の景色で、それは何にも代えがたく、
比べようのない味わいを持っています。

それが面白くて、もう一度、もう一度、と開いてきた円坐、
その円坐を「面白い」と言ってくれる人がいるのは、
何にもまして「有り難い」ことだと思います。

ここに、ご案内申し上げます。

小林健司

【267】五郎とシュバルの石の家と僕のミニ石庭。

うちの家の昔玄関だったところの前のコンクリートの上に石を並べている。ここの地面の下には下水の管が通っていて、その工事をするとき、僕は本当はコンクリートはいらないと言った。せいぜい砂利でも敷いておいて欲しいと頼んだ。その方が安いだろうという目論見もあった。

January 24, 2016

【266】困った人間。

二本続けてモチベーションが溶けていく系エントリーをお届けしました。何をやっても結局のところ無意味やんかという無情感にひたる日曜日の午後です。

【265】対称の罠と自然への入り口。

今月に入って寒波が来ているときに限って、東山の和室にいる。深夜に外を歩くと、コートを突き通ってくる物体としての寒さを感じることができる。和室自体は意外と温かい。ガスストーブがついているのと、窓が小さいのと、部屋が一部屋なのと、といろいろと温かさを保つのには都合がよくなっているからだと思う。

January 22, 2016

【264】進んだ分だけ増える歩数。

僕は何かをしていると、気が付くと窮屈になっている。始めた時には見渡す限り何もないだだっ広い荒野にいる感じがするのだけど、自分なりに進んでいくうちに気がつくともう陸地がない。岬の先端へ向かう気分になる。

January 20, 2016

【263】僕と「共同幻想論」。

一人でいると途端に生活のリズムが崩れる。一日が24時間という周期的なものではなくなり、睡眠や食事はただ局所的に辻褄を合わせるように訪れる。眠たくなったら眠れるが、それほど長続きはしないし、お腹が減れば食べれるが次の食事までの間隔は不定となる。

澪と一緒に生活していると太陽の動きに合わせて生きることができる。他人と一緒にいることがいかに同調をもたらすか。それを本当に実感する。他人と同調した生活はとても安定しているし、心地が良い。一人でいる時に感じる、現在という瞬間の行動を自覚的に選びとり、時間を自分で押し進めていくような精神の疲労が軽減される。

こう言うと、一人でいる不規則な生き方が異常性を帯びてきてしまうのだけど、必ずしもそうではなくて、日常とは言えない様相を呈してはいるけれど、れっきとした僕の生理的時間の一つでもある。そして、ある種の目的を持った時、この様相は必然となる。生活という時間帯を超えた長い長い時間を前提した世界に没入するためには、これはこれでこうなのだ。

始業時間が決まっていて、その時刻に必ずそこにいなければならない、というのは規則的な日常を成立させるために必要な同調の一種ではあるけれど、僕には過剰な規制として働く。ということを僕は過去の職場経験で学んだ。仕事自体はやりたいことなのだけど、決められた時間に行くのが難しい。僕自身の時間の揺らぎを抑えこむ過同調ともいうべき事態が起こり、ひずみが徐々に蓄積されてやがて破断する。

重ねて言うが、同調自体が不快なわけでは決してなくて、澪に朝ごはん一緒に食べよう、と言われると、うれしくて頑張ってでも起きてそれをしたいと思うし、実際にその食事はとても心地よく、新鮮な一日が送れる。

始業時間に関しては試したことがある。一人サマータイムと称して、勝手に自分だけ始業時間を2時間ほど早めて出社したりした。どのみち8時間+2時間の勤務時間ではとてもやりきれない仕事をしていたので、僕の退社時刻が正規の時間より早まることはなく、僕一人のために就業規則を変える必要は全く無かった。この試みはなかなかうまくいった。日によって出勤時間がばらついても、まったく問題ない。体が起きないときにいつもより1時間余計に寝ていても、会社機能には影響がない。

あるいは、シフト制で月の合計出勤日数さえ合えば(若干の全体予定に合わせなければならない日があったが)ほぼ自由に出勤日を自分で決められる制度をもった職場に移ったことで、かなり僕は楽になった。そして、この制度は僕の組織人生を大きく延長する結果になった。

僕ほどには組織や集団への拒絶反応が強くない人は、こういったような時間軸を融通して働くことで、労働の枠組みがもたらす苦痛を減らすことができ、労働そのものへ力を注ぐことができて、組織人としてより安定的に生きることができるようになるかもしれない。あくまでも、組織の方向性だとか人間関係だとか労働強度だとかとは異なる下層の話だけれど。

このあたりまで考えてきて、ふと吉本隆明「共同幻想論」を思い出す。

組織や集団、あるいはもっと漠然と人が複数居るだけという状況も含んで、それらが個人に対して生じさせ、また個人がそれらに対して生じさせる何らかの影響を生理的生存基盤という下層からずっと上層にまでとらえているのが本書で、最近、講読ゼミで読み始めた。

実は先日の「共同幻想論」ゼミでの振る舞いを後悔している。発言している時にもすでに少しの自覚はあったのだけど、僕は適切ではないことを言った。その時点で対象のわかっていない苛立ちによって、その苛立ちを効果的に演出するためだけに、言葉の力を使った嫌な感じが今でも強く残っている。自分の言葉がミラーボールにあたって乱反射して、シャワーのように降り注ぐ。苛立ちがあったということを表現すること自体は、発言の本心であるけれど、それによって指し示されたものはすり替えと誇張があった。「すり替えと誇張があるにせよ、苛立ちという本心を表現できたのだから、それはいいことだ」とはとても思えない。

この発言に対して、友人から適切な反論を受け、僕は僕のひずんだレンズを自覚しはじめた。見たくないものをいびつに縮小し、見たいものを詳細に拡大するご都合主義のレンズだ。本を読むことに下手に慣れている分、なまじ拡大性能だけがあがってしまってより一層たちが悪い。

ゼミの時点ではまだひずみの全容はよくわかっていなかったが、「共同幻想論」で吉本が考えたモチーフそのものが、僕の集団や組織への拒絶感の源を解き明かしているわけで、そこに僕のひずみは集中している。共同幻想が個人幻想に滲入し混和する、それ自体を不可避なものとして、本書は原初的状況から順をおって説明する。僕はその進み方に締め付けられるような不快感を覚えたのだと思う。共同幻想という概念から生じ、あるいは帰結する仕組みに、僕自身の一部が機械のように適合することを無意識と意識にまたがるあたりに感じていたからだ。一部が厳格に適合しようとし、一部は強烈に反発する。それが苛立ちとなって立ち上がる。

冷静に考えれば、この仕組みを明らかにすることで、相対的な見方が可能になるわけだから、これこそが僕にとって読むべき本なのだ。このことはゼミの後の対話で澪が教えてくれた。僕とは違って友人や澪は正確にこの本を読んでいる。

January 19, 2016

【262】流暢な英語と根性の状況分析。

昨夜から東山の和室に来ている。文章として何かをまとめようと頭のなかで対話が始まる。どうしても最近の出来事での僕の後悔が入り込み、いつのまにかそればかりになり、次々と連鎖的に後悔の状況が頭のなかで言語化されていく。何かを書くという時のそれが何かをたぐる過程で、こういうことがよく起こる。そして自虐的に疲れ果てて、眠ろうとするのだけど、容易には眠ることができず、なんども閉じたパソコンを開くことになる。

文字化する手がわずかに止まる瞬間を狙って、次の後悔の対話が始まる。断片でも書き留めておこうとして泥沼に沈む。やがて窒息するように意識が消えて、眠りが始まるが、案の定、いつも底流で望んでいる未来の体験が夢として現れ、望んではいないが予測しうる苦痛の結末を迎える。

どうにか昼過ぎに起きだして、持ってきた白菜とラーメンで白菜ラーメンを作って食べる。さらに長い時間をかけて、みやこめっせにやってきてメールをチェックすると澪からのメールが来ていて電話を返す。長い電話が終わって、パソコンに向かってよろよろと日常を手探りし

"Excuse me.”

びっくりして立ち上がって振り向くと、白人の女性が目の前に出現していた。

流暢であるがゆえに全く聞き取れない英語の流れを、僕は腐りかけた脳みそで瞬間的に根性で意訳する。

「ちょっとお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。Traditional craftsの展示場がありますよね。あの中庭の向こうに見えているところだと思うのですが、あそこへはどうやっていけばいいですか?このundergroundですよね。あの階段ですか?」

聞き取れた部分だけ英語表記するとこんな感じだ。あとは状況と、彼女の様子、主に指差した手振りを解析する以外にない。

とりあえず一番近くの地下への階段を指差して笑ってみた。

"Thankyou.”

そしてそちらへ数歩彼女は歩き出し、不意に立ち止まり戻ってくると、

「あ、それから、たしかこのあたりでJapanese calligraphyのexhibitionをしているはずなのですが、それはどこかわかりますか? この建物じゃなくて、ほかの建物かもしれませんが?」

Japanese calligraphyがかろうじて書道に像を結ぶ。しかしもうお手上げだ。うろうろと歩きまわり、無駄にコートを持ったり置いたりしたが、僕の知識データベースは一件もヒットしなかった。その様子から彼女は、

「ご存じないですか。わかりました。Thankyou.」

といって階段へ向かった。僕は無力感をどうにかため息として吐き出す。

道をきかれることは以前からよくあった。話しかけやすそうな雰囲気があると言われるとちょっとうれしいが、実際はただ暇そうに見えるからだと思う。見知らぬ人に声をかけられると、いつも一瞬驚くのだけど、回数をこなせばなんだってだいたい慣れてくるもので、最近は適切に対応できることが多い。つもりだった。日本語であれば。

それが今回は、本当に文字通り、僕にはほぼ聞き取れない発声を、僕の側でいま・ここの状況から収集し、パターン認識に放り込み、データベースを叩く検索クエリーとして創作した。行動としては何か微弱な意思疎通が成立しているかのように振る舞ってみせただけだ。後半は異常行動に見えたかもしれない。相手はとても流暢な英語を話し、僕は日本語すら発することができなかった。相手はとても落ち着いた様子で、僕は慌てふためいていた。これは対話だったのだろうか。

僕にはただ、僕の淀んだ意識に異国の風が一瞬吹き込んで波立たせ、消えてしまっただけだ。穏やかで心地良いぬくもりの残像とともに。

January 16, 2016

【261】緊張はいつも「している」。リラックスはわざわざ「する」。

今日は「読む・書く・残す探求ゼミ」の日で、大阪まで出る。

この探求ゼミでは、僕が講師ということになっているのだけど、何しろ毎回とても緊張する。たぶん、もうこれ以上後退できないところまで僕自身の場所として後退しているところだからだと思う。

January 15, 2016

【260】カレーの具は玉ねぎだけでも、十分美味しい。

昨日、白菜ラーメンを2回も食べて、予想通り今日はカレーを作った。スパイスを使った本格インドカレーではなくて、エスビー食品のカレールー「ゴールデンカレー」のカレーである。

【259】コーヒー生豆を30kg購入。

ここ数日コーヒーを切らしていた。煙草や酒よりもコーヒーが切れる事の方が、何か生活の底流のようなものが細っている感覚がして重大だ。届いたので早速焙煎して飲んで一息ついた。

January 14, 2016

【258】ロームシアター京都。

夕ごはんはペペロンチーノを作って食べる。ペペロンチーノはフェデリーニという細めのパスタで作るのだけど、湯で時間が短いのでその分早く作れる。

【257】すき焼きとラーメンとロームシアター京都。

昨夜はネギとたまごと糸こんにゃくと焼き豆腐を買ってきて、伊江牛のすき焼きをした。箱に綺麗に並べてあるB5のコピー用紙ぐらいの霜降り肉を一枚一枚焼いて食べる。肉を食べるということ自体のものすごい非日常的な力を感じる。美味しいというだけですまない感じがする。送ってくれたいとーちゃんのことを考える。

January 13, 2016

【256】遠いところから肉が届いた。

電話で佐川急便が航空便で冷凍ですよと言うので一体何が届くのだろうと澪と二人で待っていた。届いてみると真っ赤な包装紙に包まれた伊江牛だった。沖縄の糸満に住むいとーちゃんが送ってくれた。澪と二人でびっくりして、しばらく唖然としたあと、今夜はすき焼きにしようと決めて、それでまた改めて顔を見合わせて息を吐いた。こんなに牛肉を見るのも久しぶりだし、ましてや食べるとなると、今からヨダレが出そうになる。

それにしても、この何とも言えない衝撃が体を走っていくのは一体なんだろうと思う。驚いてただ呆然としてしまう。沖縄から飛行機に乗って牛がやってきた。この衝撃が日常を切り裂いて、寒い1月の宇治の曇り空に、一瞬、あの青い青い海と空と雲が映し出される。たぶんこれがハレというやつの正体なのだ。ケを切り裂き立ち現れるハレなのだ。ぞわぞわといつもとは違う感じを圧倒的に漂わせながら遠いところから突如やってくるのだ。

January 12, 2016

January 9, 2016

【254】白菜ラーメン。

ありがたいことに野菜をよくいただく。自分で作っているという知り合いがいたり、そういう知り合いからもらうという人がいたり。今年の冬は白菜をたくさんいただいた。白菜はだいたい白菜ラーメンにする。

January 2, 2016

【253】薪をもらったら、野菜をもらった。

庭でなにやら声がするので下りてみると、となりのおばちゃんと娘さん二人、娘さんのうちの一人の旦那さんが、おばちゃんちのザボンの木の枝を剪定している。わりと大きな枝を切っていたので、
「捨てるならちょうだい。薪にちょうどいいねん」
というと、ええのん?わるいなぁと言いながら渡してくれた。剪定は時々しているけど、ちょうど年末年始で娘さん夫婦が帰ってきているからか、大規模にやっている。すでにいくつか大きな枝が切り落とされていたのでそれもまとめてもらった。