今月に入って寒波が来ているときに限って、東山の和室にいる。深夜に外を歩くと、コートを突き通ってくる物体としての寒さを感じることができる。和室自体は意外と温かい。ガスストーブがついているのと、窓が小さいのと、部屋が一部屋なのと、といろいろと温かさを保つのには都合がよくなっているからだと思う。
ということは夏が思いやられる。去年の秋にアパート内で部屋を移動したのだけど、それまでの部屋は窓が大きく、その反対側の廊下側にも窓があって、両方開ければ、かろうじて風が通っていた。去年の夏の京都の蒸し暑さのなかの狂騒的な一週間を思い出す。
「書生」生活と題して、エアコンも扇風機もないこの部屋で過ごした日々の記録はこのブログに残っていて、あれは本当に同じ場所での出来事なのかと思えだしてくれる。
【207】「書生」生活1日目。苦手な夏を楽しむための思いつき企画。
こんなふうに、冬に夏を想い、乾燥に湿潤を思い浮かべるのは、人間の意識がよくやることだ。反対という位置はとてもわかりやすいからだと思う。冬の厳しさの描写をして、その反意語を並べれば夏の描写になる。冬について深く感じいれば、夏の感じが同じだけ深まる。
でも、本当にそうなのだろうか。
対称や反対は便利な道具だ。2つのものを対称や反対と位置づけてしまえば、片方を見るだけでもう片方も見えた気分になるし、そういう説明もできる。この説明の説得力の源は、その説明自体からではなくて、対称や反対という位置関係がもっている力によるものだと思う。冬についてよくよく感じ入ることとの中にしか、冬はない。夏は夏で別のものだ。
ただ、便利であることは間違いないし、これを使わずに何かを考えたり、思い浮かべたりすること自体が難しい。図示することにも似ていて、とても便利でだからこその罠でもある。
ただ、無の上に何もかもが並んでいる。冬も夏も、それが地軸の傾きという同一点から別方向に伸びた枝の先だとしても、その枝先同士は相対的なものではなくて、その一点から伸びた固有の有り様なのだと思う。
こんなことを考えていると足元の石ころ一つが、世界でたったひとつの存在にまで戻っていく。すべてのものは世界でたった一つしかないという自然に戻っていく。それが石と呼ばれているのは、石という類型が便利だからにすぎなくて、それ自身からすると、そんな見方では自分を何も見ていない、という声が聞こえてくる。
こうして瞑想的迷走の果ては何もかもが戻っていく故郷としての振り出しである。
同時に砂の城の尊さを思う。潮が満ちて波が打ち寄せれば静かに砂浜に戻って、周りの砂と見分けがつかなくなるけれど、それでもその城はあった。