円坐とは何か。
これだけは間違っていないだろうと共有できる説明として、
1 円坐は時間と場所を決めて人が集まり円になって座ること。
辞書的な客観性を感じるが、だからなに?という歯がゆさが残る。もう一点、付け加えることとして、
2 円坐には守人がいる。
守人は、世間的に通りそうな言い換えとしては「ファシリテーター」なのだけれど、世間的に通っているファシリテーター像とはかけ離れていて、そう思っていると全く違う感じに戸惑うかもしれない。いずれにせよ、そういう立場がある。
3 守人以外は参加者である。
言わずもがなだけれど。
この辺りまでが、円坐を外部から対象として見た場合に言える客観的なことになる。
逆に言えばこれ以降は、円坐の中での、それぞれの人の主観的、個的な円坐像を示すことになっていく。言うまでもなくこの個的な部分が円坐にとって大きい領域で、しかしそれが個的であるがゆえに、説明しにくい。
以下、僕にとっての円坐でしかなくなってしまうが、記述を続けるためにまずこの事自体を前提する。
4 円坐では、人の集まりという以前に個的で内的な領域に大きな部分がある。
僕の個的な領域で何が起こっているかというと、
5 自分が内側に落ち込むことで、自分以外から自分を滴り落としていき、自分という意識の存在が無の上に置かれていると感じられる。
どうしても抽象的になるのは、個々の円坐での僕の具体的体験が共通性を持ちにくいからで、むしろ体験について具体的な共通性を持とうとしたとたんにそこから外れ、そうではないものとして外側へ回り込もうとする感覚があるからでもある。
6 今ここに存在する自分だけを確からしいと感じることで、それ以外のものが自然(ありのまま)になっていく。
〈僕〉という意識だけが自然から抜け落ち〈僕〉以外が(僕の体や僕の感覚も含め)自然だと思えるような意識である。
この時〈僕〉は、不思議ととても楽しくてうれしい気分になる。円坐と言った時に僕のなかに結ぶ像は、この〈僕〉であることが多い。
もちろん、円坐で実際に起こることは必ずしも楽しかったりうれしかったりすることだけではなくて、そういうことも「知っていたり、予測できたりする」のだけれどそれでも、何が起こってもそれでいい、という感じになって、楽しさやうれしさが確かに発生している。この時僕は、はたから見れば不気味ににやけていると思う。
何が起こってもそれでいい、という感覚は、今ここの自分の存在が確からしいものとして一本の縄の端を掴んでいることと、その反対側の端は何にも固定されず世界と未来に解放されているイメージとして、僕にはある。
7 自然な空間的広がりと時間的広がりの中に〈他者〉の輪郭を見出す。
空間的広がりというのは、現在という時刻における自由度の範囲というような意味で、時間的広がりというのは、現在から未来へ伸びる時間軸の自由度というような意味で、本当はあえて分ける必要のないものでもある。そして、自分と同じように、〈自分〉という意識存在をもって存在する〈他者〉を、自然のなかから意識の輪郭として抜き出す。
8 何が起こってもそれでいいという自由度をもったまま、自分と他者とによって、何かが起こる。
表面上はただその場にいる全員が沈黙している、というように見える場合があるが、この場合ですら、自分と他者には、何かが起こっている。ここで自由度を前提していることと、実際に、他者とのやり取りから生じる、関係性としての不自由は矛盾しない。
こうしてさまざまなことが起こる。そのさまざまなことを取り出して、その傾向や再現性を語ることは可能なのだけれど、複数の円坐から取り出され切り離されたものを並べて見た傾向や再現性自体には僕はどうやらあまり関心がない。ただ、その時とその場所とそこに居た人が持ち合わせた、強度の差こそあれ、あらゆるものと結びつき得る関係性によって、結果的に生じた全体的で一回性のものだと思う。そういう意味で、「その円坐」をあとから辿るということは大きなことではあるが、それは「その円坐」においてでしかない。
9 守人が終了を告げるまで続く。
円坐に始まりと終わりがあることは誰もが知っている。始まりによって「その円坐」が生じる。また、終わりもある。円坐中、未来のある時点の終わりから現在に向けてかかってくる圧力がある。川の流れに岩があれば、岩よりも上流の流れにまでその影響が及ぶのと同じ。これは始まりと終わりがあること以外に還元できない。
くどくどと書いてきた。以上の円坐における大部分は、あくまでも僕の個人の領域に属するものから見たもので、これが僕の現時点での限界を示している。
なるべく、円坐を体験したことがなく自分の体験として確認しようがない人でも辿れるように書いたつもりだけれど、そのせいで余計にわかりにくいかもしれない。ただ「出てみないとわからない」とだけは言いたくない。円坐において経験と未経験の二者を区別することに、この言葉が示すほどの絶対性があると思えないし(相対的なものはあるけれど)、何よりこの言葉によって円坐というものを遮蔽してしまうことにいい気分がしないからだ。
僕は円坐そのものを主催する(あるいは開催場所に比較不可能な絶対的位置を持っている)という立場には立つことがある。これは「円坐をする」という絶対的な立場ではあるけれど、いざ円坐そのものが始まれば、そういった立場も相対化されて(比重としては無視できない大きなものではあるし、その影響は強く現れるけれど)、そういう背景を持ったいち参加者となる。
最後になったけれど、書き落としている部分がある。それは守人についてだけれど、僕自身が、円坐に参加者としてしか居たことがないためで、僕がかろうじてわかることは、
10 守人は、個々の参加者の持っている個々の領域と、その領域の重なりあいとしての現象を、参加者とは異なる立場から見続ける。
という非参加者の立場しか説明できない。個々の領域をその人以外の人が見ている(より現実的には「見ようとしている」)ということをさして「守る」ということは、それほど外れていないと今は思える。
円坐に出たことがない人に、と思って書き始めたのが思った以上に長くわかりにくくなって結果として、読んでもらえない気がしてきて落ち込んでいる。