January 20, 2016

【263】僕と「共同幻想論」。

一人でいると途端に生活のリズムが崩れる。一日が24時間という周期的なものではなくなり、睡眠や食事はただ局所的に辻褄を合わせるように訪れる。眠たくなったら眠れるが、それほど長続きはしないし、お腹が減れば食べれるが次の食事までの間隔は不定となる。

澪と一緒に生活していると太陽の動きに合わせて生きることができる。他人と一緒にいることがいかに同調をもたらすか。それを本当に実感する。他人と同調した生活はとても安定しているし、心地が良い。一人でいる時に感じる、現在という瞬間の行動を自覚的に選びとり、時間を自分で押し進めていくような精神の疲労が軽減される。

こう言うと、一人でいる不規則な生き方が異常性を帯びてきてしまうのだけど、必ずしもそうではなくて、日常とは言えない様相を呈してはいるけれど、れっきとした僕の生理的時間の一つでもある。そして、ある種の目的を持った時、この様相は必然となる。生活という時間帯を超えた長い長い時間を前提した世界に没入するためには、これはこれでこうなのだ。

始業時間が決まっていて、その時刻に必ずそこにいなければならない、というのは規則的な日常を成立させるために必要な同調の一種ではあるけれど、僕には過剰な規制として働く。ということを僕は過去の職場経験で学んだ。仕事自体はやりたいことなのだけど、決められた時間に行くのが難しい。僕自身の時間の揺らぎを抑えこむ過同調ともいうべき事態が起こり、ひずみが徐々に蓄積されてやがて破断する。

重ねて言うが、同調自体が不快なわけでは決してなくて、澪に朝ごはん一緒に食べよう、と言われると、うれしくて頑張ってでも起きてそれをしたいと思うし、実際にその食事はとても心地よく、新鮮な一日が送れる。

始業時間に関しては試したことがある。一人サマータイムと称して、勝手に自分だけ始業時間を2時間ほど早めて出社したりした。どのみち8時間+2時間の勤務時間ではとてもやりきれない仕事をしていたので、僕の退社時刻が正規の時間より早まることはなく、僕一人のために就業規則を変える必要は全く無かった。この試みはなかなかうまくいった。日によって出勤時間がばらついても、まったく問題ない。体が起きないときにいつもより1時間余計に寝ていても、会社機能には影響がない。

あるいは、シフト制で月の合計出勤日数さえ合えば(若干の全体予定に合わせなければならない日があったが)ほぼ自由に出勤日を自分で決められる制度をもった職場に移ったことで、かなり僕は楽になった。そして、この制度は僕の組織人生を大きく延長する結果になった。

僕ほどには組織や集団への拒絶反応が強くない人は、こういったような時間軸を融通して働くことで、労働の枠組みがもたらす苦痛を減らすことができ、労働そのものへ力を注ぐことができて、組織人としてより安定的に生きることができるようになるかもしれない。あくまでも、組織の方向性だとか人間関係だとか労働強度だとかとは異なる下層の話だけれど。

このあたりまで考えてきて、ふと吉本隆明「共同幻想論」を思い出す。

組織や集団、あるいはもっと漠然と人が複数居るだけという状況も含んで、それらが個人に対して生じさせ、また個人がそれらに対して生じさせる何らかの影響を生理的生存基盤という下層からずっと上層にまでとらえているのが本書で、最近、講読ゼミで読み始めた。

実は先日の「共同幻想論」ゼミでの振る舞いを後悔している。発言している時にもすでに少しの自覚はあったのだけど、僕は適切ではないことを言った。その時点で対象のわかっていない苛立ちによって、その苛立ちを効果的に演出するためだけに、言葉の力を使った嫌な感じが今でも強く残っている。自分の言葉がミラーボールにあたって乱反射して、シャワーのように降り注ぐ。苛立ちがあったということを表現すること自体は、発言の本心であるけれど、それによって指し示されたものはすり替えと誇張があった。「すり替えと誇張があるにせよ、苛立ちという本心を表現できたのだから、それはいいことだ」とはとても思えない。

この発言に対して、友人から適切な反論を受け、僕は僕のひずんだレンズを自覚しはじめた。見たくないものをいびつに縮小し、見たいものを詳細に拡大するご都合主義のレンズだ。本を読むことに下手に慣れている分、なまじ拡大性能だけがあがってしまってより一層たちが悪い。

ゼミの時点ではまだひずみの全容はよくわかっていなかったが、「共同幻想論」で吉本が考えたモチーフそのものが、僕の集団や組織への拒絶感の源を解き明かしているわけで、そこに僕のひずみは集中している。共同幻想が個人幻想に滲入し混和する、それ自体を不可避なものとして、本書は原初的状況から順をおって説明する。僕はその進み方に締め付けられるような不快感を覚えたのだと思う。共同幻想という概念から生じ、あるいは帰結する仕組みに、僕自身の一部が機械のように適合することを無意識と意識にまたがるあたりに感じていたからだ。一部が厳格に適合しようとし、一部は強烈に反発する。それが苛立ちとなって立ち上がる。

冷静に考えれば、この仕組みを明らかにすることで、相対的な見方が可能になるわけだから、これこそが僕にとって読むべき本なのだ。このことはゼミの後の対話で澪が教えてくれた。僕とは違って友人や澪は正確にこの本を読んでいる。


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