October 10, 2018

【451】絵本と児童文学に対する僕の不満。(生後34日目)

この時期、目もだいぶ見えるようになってきた様子だけど、やはり断然聴覚優位である。抱っこして窓の近くに行くと、外の道を通るバイクの音に耳を澄ませ、バイクが走り去っていく方向に目を動かしている。バイク自体は窓からは見えない。雨が降っているとその音を聞いている。台所で料理しているとそれを聞く。匂いがどの程度わかっているのかは判断が難しい。

人の話声への反応も強い。話しかけているだけでおとなしくなることも多い。先日のイベント「本好きが本の話をする時間」は約2時間、そばでおとなしくしていて、これには結構驚いた。

というわけで、読み聞かせもしている。読み聞かせといえば絵本なのだけど、僕も澪も絵本があまり好きではない。というか、絵本は長新太しか許容できない。絵本や児童文学全般に言えることなのだけど、どうしても入り込んでしまう「教訓性」や「社会適合性」などに我慢がならないからだ。

わかりやすいところでいえば、「そらいろのたね」のキツネに対する社会的な罰などがそうで、モラル好きな大人が自分で読むには文句はないのだけれど、これを僕自身が子供として強制的に読まされたいとはまったく思わない。このある種のモラル臭は、「ぐりとぐら」での、「みんなで」ホットケーキを作って食べることへの報酬感(罰との対置)としてもわずかに混じりこんでしまっている(「ぐりとぐら」は「そらいろのたね」と比べると断然良いのだが、それでも、である)。

なので、僕が読み聞かせるものとして、読めない。「大人の都合による社会性」とでもいうべきもの要素が、大半の絵本と児童文学にどうしても滲んでしまっている。もちろんすべてがそうだというつもりはないが、「子供向け」という観点が自ずと持ってしまう大人のモラルの視点はそう簡単に消し去ることはできない。

児童文学で言えば、この点を明確に言及している作家として「オズの魔法使い」のライマン・フランク・ボームが挙げられる。ボームは、同書の序文で、(児童文学にこの手の「序文」をつけるということ自体、変わっている気がするが)
現代の教育には、すでに道徳が組み込まれています。したがって、現代の子供は、童話にひたすら娯楽性を求めます。彼らにとっては、わざとらしい不愉快な挿話(インシデント)など、なくてさいわいなのです。『オズの魔法使い』の物語は、こういったことを念頭に、今日の子供たちを喜ばせることのみを目標として書かれたものです。驚きと喜びはそのままに、心痛と悪夢を取り去った現代版おとぎばなしーーそれがこの一遍なのです。(佐藤高子訳)

と書いている。ここにある「挿話(インシデント)」は直前に「個々の物語にふくめたおそろしい教訓(モラル)を強調せんものと著者たちがひねり出す、血も凍るような挿話」(同序文)のことである。

この序文通り、「オズの魔法使い」には、モラルを強調するようなところはまったくないし、読者に心痛や悪夢をもたらしそうな危機シーン(罰と報酬を生み出す仕組み)はあっけにとられるほど 軽く解決される。例えば、悪い魔女との「対決」は、靴を返してくれない魔女に対して、ドロシーがかんかんに怒って、そばにあったバケツの水を浴びせかけて終わる(なぜか悪い魔女は水に弱いことになっている)。このバカバカしいほどの気楽さと気軽さの連続がこの物語の醍醐味である。

もっとも「オズの魔法使い」という物語自体は多くの商業的利用にさらされ改変を受けてしまっている。たとえば、アメリカを代表する劇中歌「オーバー・ザ・レインボウ」を生んだミュージカル映画「オズの魔法使」では、この原作者の序文が完全に無視され「血も凍るような挿話」が挿入され(原作にはない「砂時計の砂が全部落ちるとドロシーは死んでしまう」という演出など)、ラストシーンは「夢オチ(全部、ドロシーがみた夢だった)」という大人の都合に堕している。

原作のラストは「夢オチ」などという物語の終端処理としての薄っぺらなソレらしさを優先したものではなく、あくまでもドロシーがオズの世界を旅してきたことが、事実として扱われている。

ドロシーが戻るのは、「たつまきにさらわれあとにヘンリーおじさんが建てた、新しい百姓家」である。もどってきたドロシーに対してエムおばさんは、
「うちのかわいいこ!」おばさんは叫んで、少女を腕にだきしめ、顔中にキスをしました。
「いったいぜんたい、どこからかえっておいでだえ?」
と尋ねる。つまり、たつまきのあと、新しい家が建つまでの一定期間、ドロシーは〈現実に〉行方不明になっていた。さらに、
「オズの国からよ」ドロシーが、おごそかなようすでいいました。「それから、ほら、トトもいっしょよ。ああ、エムおばさん、あたし、うちに帰れてほんとにうれしいわ!」
ここで終わるのだ。このドロシーのセリフ、ドロシーの立場で終わる。これを読んできた子供(僕)にとって、これほどうれしいラストはない。ドロシーとともにあった冒険のすべてが、現実であった、事実であった、と刻んで終わっている。夢や幻などでは断じてないという宣言である。

この宣言は、読者と主人公のかけがえのない物語時間を「夢でも見ていたのか」と、こともなげに処理し、社会適合の認識(御伽ばやしや夢の世界とは違う「現実」があるのだという認識)を強制させる大人の都合を、断固拒否している。

この点で「ふしぎの国のアリス」のラストは興味深い。アリスが昼寝をしながら夢を見ていた(つまり「夢オチ」)としながらも、そのアリスが話してくれた夢の世界に、聞いていた姉が再び入り込みそうになっている。「そうして彼女(姉)は目を閉じてすわったまま、自分もまた不思議国にはいり込んだような気持ちになっていた」(柳瀬尚紀訳)。単純にアリスの夢・幻だったで終わるのではなく、むしろワンダーランドを現実に逆流させようとしている。ここに、アリスら姉妹の傍らにいるものとしてのキャロルと、物語の著作者としてのキャロルとの間の葛藤がある。

さて、当初書こうと思っていたことから大幅にずれてしまった。読み聞かせる時、絵本や児童文学など「子供向け」に作られているものにとらわれる必要はない(ひたすら植物図鑑を読んで欲しがる子供もいる)。「子供向け」ということ自体が、本来は慎重に検討されるべき危うい強制力を持っている。

澪はこのブログの「子供日記」のエントリーを読み聞かせていて、新(あらた)もそれなりに聞いている。僕はアドリブで話を作って聞かせているが、そろそろまとまった文章を聞かせたい気分にもなっている。まずは吉本隆明の「言語美」でも試してみようかと思っている。



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