9月6日に男の子が生まれた。名前は新(あらた)と名付けた。
難産だった。助産院だったので、僕も3日間そばにいた。二日目の夜中、陣痛が始まってから24時間から30時間ぐらいの間が一番つらかった。澪の分娩段階は全く進行せず、ただただ10分おきに声を限りにうめいて激痛に耐える。それが深夜6時間続いた。「痛くて気が狂いそう」という言葉は言葉通りに突き刺さってくる。
朝になったら提携先の病院に電話をかけて転院を相談できるということだけが希望だった。病院に行けば陣痛促進剤が使えるようになる。陣痛段階が進む。「朝になったら」というのは、緊急事態でない以上は病院側も深夜に搬入対応はしないからで、つまり、このときできるのは、ただ激痛に耐えて朝までの6時間という時間を潰すことだけだった。昼間であれば対応はもっと迅速に行われたと思われるけれど、誰も悪いわけではなく、ただタイミングが悪かった。
僕にできることは限られていた。少しでも痛みを逃がすために、呼吸のタイミングを伝えようと自分も一緒に吸ったり吐いたりした。腰をさすったり押したり、力いっぱい腕を握られながら体を支えたりした。できる限りのことはやったつもりだけど、やればやるほど、僕にできることはこの程度なのだと思い知るばかりだった。無力だった。
悪夢のような6時間、僕が考え続けていたのは、もし、この出産が無事に終わったら、それでも結局、僕は僕のできることをちゃんとやるしかないんだということだった。それが僕にしかできないことなのかどうかは、どうでもよい。自分にできることを全部やっても、大したことが起きないということを思い知った分、逆説的だけれど、僕にできることがもっとあるのではないかと思った。
翌朝、助産院から転院した。病院的には通常はありえない妊婦の状態だったのだろう、搬入された分娩室はまるで『ER』みたいにバタバタだった。最初はそれでも元気づけようとするスタッフの余裕ある軽口が聞こえたが、やがて、点滴で入れている陣痛促進剤の効きが間に合わないとか、子宮が疲れすぎていて押し出す力が弱いとか、時間を追うごとにシリアスなフレーズだけになった。
途中、僕だけ分娩室の外に呼び出され、医者に「本人にはまだ伝えませんが、帝王切開の可能性も頭に入れておいてください」と言われた。時間との戦いだったということに気がついたときにはもうすでに、その時間はオーバーしてしまっていた。すべてが後手後手に回ってしまった、もう少し早く来ていればよかったと思ったがどうしようもなかった。あとは、医者が自然分娩を諦める判断をすれば、その時点で帝王切開に切り替わる。
難産という出来事も、帝王切開も、その他の医療的オプションも、それ自体はそれほど稀なことではない。けれど、僕たちにとっては重大なことだった。気がつけば助産院での「より自然な出産」という当初描いていたものからは遥かに遠くまで押し流されてしまっていた。状況が追い込まれ、そのたびに取りうる選択肢は減り、起こりうる結果も変質していった。もっと早い段階で別の決定をしておくべきではなかったかという後悔が膨れ上がっていき、このままどこまで遠く離れてしまうのか。僕たちは再び家に帰ることができるのか、そんなことまで考えた。
この段階にいたって、僕にできることはもうほとんどなかった。陣痛に合わせて分娩台の上の澪の手を握って「フーーッ」とできるだけ長く息を吐いてみせるだけ。もう体を支えることもできない。ほぼ3分間隔で来る一回一回の陣痛がだけが頼りだった。次の陣痛は弱くなってしまって、もう二度と産むだけの力が出ないかもしれない。この一回の陣痛を大切にして、できるだけ長く息を吐いて、いきむ時間を伸ばす。もう次はないかもしれないと思いながら、僕は澪と一緒に息を吐いていた。生み出すということが前向きな出来事であるというよりは、残された機会が確実に減っていく、後のない崖っぷちの出来事だった。
結果、子供は自然分娩で生まれてきた。澪の頑張りが引き寄せた奇跡だと僕は思っている。心底よかった。今になっても、母子ともに無事だった、と言える気がしない。
明日、一ヶ月検診に行く。