October 8, 2018

【448】山根澪との会話「良い美術展とモネすげぇ」

山根澪と特にテーマを決めず話をしたものを再構成しました。

美術展の良し悪しがわかるようになってきた

山根:
 去年の9月ぐらいから美術館にいっぱい行くようになって。多いときは月10回以上。以前は、興味のある作品が展示される美術展だけ観に行ってた。

 作品自体は行く前に何があるか分かるから、その作品を観ること自体は展示に行ったら絶対達成されるんだけど、それ以外のことですごいがっかりしたり、おお!と思ったりするようになった。意図を持ってちゃんとやってる美術展は面白い。

 例えば、目玉になる一枚があるとすると、企画した人にとって、その一枚が面白く見えてる面があるはずで、それが分かるように他の作品を並べてきたり、文章で説明したり、そういうことをやってる。展示自体は、展示をした人の作品、「キュレーターの作品」って気がする。一枚だけ絵を観るっていうのと全然違う。

大谷:
 骨董市とかで、古い汚い壊れたザルとか売ってて。それ見て「こんなのはウチにもある」って思うんだよね。それが「こんな高い値段で売られているなんて」って。

 でも、よくよく考えると、物置とかに使わなくて放ったらかしになっていることと、古道具屋さんが店にそれを出すっていうことは全然違うことなんだよなって思う。この汚いザルが、実は、古道具としてかっこいいのだ、商品価値があるのだ、と古道具屋さんは言ってる。それって簡単にはできない。古道具の面白さって、そういう価値の提示にある。

 優れた美術展はそういうことをやっているのかなと思った。

山根:
 そういうがスパッと見える展示はやっぱりかっこいい。この一年だと「バベルの塔展(国立国際美術館)」ぐらい。

 バベルの塔自体がすごい有名な絵で、何をしてもそこそこ集客できる絵だと思うけど、ちゃんとした展示だった。その画家自身(ブリューゲル)の絵も、その前の時代の人の絵も結構集めてきていて。その時にすごいスタイルが変わったことがわかる。神話に出てくるバベルの塔をどう捉えたかが、ちゃんと観たらちゃんと分かる。展示の裏側に膨大な知識を感じる。

大谷:
 優れた美術展は批評を含んでいると思う。ただ並べて観せるだけじゃなく。こういう観点から作品を観れば、作品がもっと面白くなるんだよってことを提示するのが批評だと思う。

モネすげぇ、と思った

山根:
 そういう感じの挑戦をしてる展示が面白い。何年か前、モネ展を京都市美術館でやっていて。それまであんまりモネは好きではなかったんやけど、モネすげぇって思った。

 「モネは光を描こうとした」と言われたりするけど、それが本当に、最初の若い時から死ぬまで生涯を通してそれをやろうとしてたっていうのが、作品を観ればわかるように展示されてて。

 展示を最後まで観て思ったのは、晩年、モネが達成したのは、光をとらえる瞬間「だけ」を描いたって感じ。何かを見たときに、物体として「これは木だ」とか、そういう、物と自分の関係を結ぶ前の、パッと見た時の光の印象。そこだけで終わらせるような絵を、最終的にモネは描いた。

 でも、そこに到達するまでは、モネもやっぱり物を描いちゃう。光をとらえるのと物を描くっていうのはちょっと違うのだけど、どうしても絵としてそうなってしまう。最後までいってそれがわかる。そこに行くまでにモネが試していったことが見えてくる。

 だから、これそんなに良くないかもって思うのも、途中にはあって。水の下にある藻を描いているやつとかは、これは失敗だなって。でも実験でこれをやったんだねっていう、そういうのがわかってしまうように並べてある。モネだから全部すごいだなんて思わせない。

 よく「印象派は感情を描いた」みたいことが、言われてたりはするけど、でもそうなんかなぁ。感情をとっぱらった時にどうやって描くかみたいなことを、少なくともモネは挑戦したんじゃないかって思う。

 たとえば、花でも見て描いたりする時に、こう、スイートピー綺麗だから、可愛い感じとか鮮やかな感じに描こうみたいな、そういう描き方じゃなくて、その感情が発生する前に、ただ光が網膜に来てるはずだから、それをどうやって描くかというのを、モネは突き詰めて行ったんじゃないか。見たままを描いてて感情がない。感情と切り離してるって思う。ただパッと見たときにこう見えましたっていう新しい写実性というか。その一瞬に忠実であるからできることとしての写実かな。

 言葉でたくさん説明した展示ではないんやけど、真面目な展示、モネ入門みたいな感じですごくいい。あの展示を観たから、モネだったらいろんな美術館に一点とか二点とかあったりするけど、そういうのも面白く観えるようになる。そうなれる展示だったなと思って。それからモネ好きになって、一点でも観に行ったりする。

大谷:
 モネは、見るっていうことのプロセスを細分化していくようなことをやろうとしたってこと? 何かを見たときにそれがなんであるかっていうことの認識が発生するけど、その前の段階で。

山根:
 最初に思ったのは、絵が溶けてるって感じがした。「柳」とか「太鼓橋」とかタイトルは付いてるんだけどもう、柳の木を見たって思う前ぐらいで、像をむずばせない。暗い部屋から明るい外に出たときに、ちょっとまだ暗さの標準をあわせていく途中というか、そういうところの瞬間を描いてる。じっと絵を見ていてわかるとかそういうもんじゃなくて、見てたらもう何だかわかんない感じになって。

大谷:
 視覚から意識に至るプロセスをある段階で止めるのって、大変だと思う。

 たしかに、庭でボーッっとしているとそういうふうに見えることがある。何かに集中していない、何にも焦点が合わないような見え方。でも、すぐに何かを見てしまう。何かに焦点があってしまう。意識の焦点が合うと同時に、視覚の焦点も合ってしまう。見るって言う行為はそういうふうになってる。ただ、意識が何も照準しない瞬間っていうのはあるから、その瞬間の視界をイメージとして記憶してしまえば、あとから描くことはできなくはない気もする。でも、再現するのも相当難しい。何か見ているようで何も見ていない、集中(照準)していない視覚のイメージ。

 ゲルハルト・リヒターがピンボケ写真みたいな絵を描いていたけど、あれもモネとは違う意味で視覚というものの構造をとらえた絵画なのかなって思った。リヒターのピンぼけの絵は、普通にピントが合った状態に描いたあとでピンぼけにする処理をしている。最初からピンぼけに描いてはいない。当たり前だけど。もしそれをもともとピンぼけに描くとしたらどうなるんだろうって思う。さっきのモネの「物と自分の関係を結ぶ前の、パッと見た時の光の印象」っていう話はそういうのかなと思った。

山根:
 そういうことかもしれない。どうやって描いたんだって、すごい思う。

 東京で美術館行ったときに、子供とボランティアガイドが話しをしてて、絵って近くで描くしかないから、子供に近くでどう観えるってきくと「ぐちゃぐちゃ」って、じゃぁ離れてみてみようって、そしたら「めちゃきれい」って。

 離れたら写実的に見えるんだけど、近づいて精密に描いた写実とは全く違う。それこそ人間の目に逆に近いような感じを受けさせる。どうなってんだって、何回見ても思う。できんわ、これはって。

(収録日 2018/07/02)


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