November 25, 2014

【031】豊富とも稀少とも違うところにある「うれしい」

今年も大きくなってきた隣のザボン。
ハンドボールぐらい。
ぶどうの苗木を注文した。マスカット・ベリーAという品種。
12月初旬に届いたら、庭に植える。

パートナーの澪と、植える場所を決めて、そこにあった切り株を掘り起こして、開いた穴にコンポストを設置して、生ごみを入れて、と準備してきた。

去年、つくだ農園のぶどうの定植に行って、その時いつかうちでもぶどう植えようと思ってから1年半。
http://tsukuda-blog.sblo.jp/article/64043693.html

子供の頃、家に果樹があるのがいいなあと思っていた。
うちの家にはなかった。

と、ふと思い出した。

自宅に果樹がある人が来客に「うちでは食べきれないから好きなだけもっていって」といったようなことを言う。
遠慮せずにという意味なのだろうけど、それにどうにもがっかりしていた。

さらに思い出す。

我が家の庭にルッコラが生えている。
どんどん増えていく。
ちぎって醤油とごま油とチーズを掛けて食べると美味しい。
美味しいのだけど、たくさんあるから、家に来る人に「いくらでもあるから好きなだけ持っていって」と言っていた。

美味しいし、庭に元気に生えていていつでも食べられるのがうれしいとも思う。
でも、たくさんあるということで、そのうれしいは目減りしている。
いや、たくさんあることそのものではなくて、遠慮せずにという意味で使う「いくらでもあるから好きなだけ持っていって」という言い回しによって、僕が目減りさせている。

人に仕事を頼むときに使う「簡単だから」「すぐにできるから」「だれにでもできるから」という言い回しも似ている。
引き受けることの敷居を下げようとする言い回しによって、仕事の意味が目減りする。

たくさんあるからでもなく、
ちょっとしかないからでもなく、
簡単ですぐに誰にでもできるからでもなく、
難しくてあなたにしかできないからでもなく、
そういうこととは違うところにあるうれしいがうれしい。

となりの家にザボンの樹がある。
堆肥を足したり、伸びすぎた枝を切ったり、つきすぎた実を減らしたりして、隣のおばちゃんは毎年ザボンを育てる。
僕はザボンがだんだん大きくなっていくのを見ているだけでうれしくなる。
年末になると、おばちゃんはその実をとって子どもや孫にあげる。
もし余ったら僕のところにもひとつ持ってきてくれる。
とてもうれしい。

ぶどうが成ったらおばちゃんにあげよう。



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