May 9, 2015

【150】なんでもやりたいことをやればいい。道具は揃っている。という空間で何もできない。

今日は『贈与論』のゼミが午後からあるので、東山の和室から帰ってきた。

澪がスリッパを作るために革に穴を開けていて、実家宛に荷物が届いているから持って行ってほしいと言われ、猫のシロが久しぶりに帰ってきたからか怯えているので、帰ってきた挨拶をしろと言われる。

家に上がってくるまでに駅からずっと坂を登ってくるから、だいたい家にたどり着くと疲れているから、少し休みたいと思うのだけど、ラジオで802がなっていて、802は全てにわたって特にテンポがタイトに詰まっていて、掻き立て続ける。

猫に挨拶をする。シロを抱っこして二階に登るとチビもついてくる。シッポはいつもの椅子に寝転がっていて、挨拶をするとあくびをする。シッポの喉をかいてやると気持ちよさそうにして、それを見たシロが自分もやってほしいと僕の手とシッポの頭の間に自分の頭をねじ込んでくる。仕方なくシロの頭をかいてやると今度は左足にチビが首を擦りつけてくるので、そっちは左手でかいてやる。

シャワーを浴びてさっぱりして、カルボナーラを澪が作ってくれて食べる。家に帰ってくると美味しい料理が食べられる。自分で作っても家だと美味しい物が作れる。東山の和室だと、美味しくない。それでも慣れてくるとあるラインを下回らない程度の物を選んで食べることができるようになって、例えば、冷凍のそばを茹でて缶のつゆで食べたり、インスタントのタイラーメンあたりがラインナップに入る。もう少し、あと1つか2つ見つけられれば、あとはそれを繰り返すだけでいい。

コーヒーは東山にいる間は飲まないでもなんとかなった。家に帰って美味しいコーヒーを飲むのがうれしい。

総じて家にいるとできることが増える。増えるどころか僕が今、思いつくこと、望むことはほぼなんでもできるだけの道具が揃っていて、その環境がなんでもやりたいことをやれと言ってくる。まさにフル装備の生活。(というのは以前ブログにも書いた

そうするととたんに何もできなくなる。何もかもが僕に何かをしろと迫ってくる。なぜなにもしないのかと迫ってくる。そうするとなおいっそう何もできなくなる。何もできないことに困りだす。何もしなくても困らないはずなのに、困り、罪悪感が発生する。

東山の和室は何もないから極端にできることが少なくて、だから何もしなくても困らない。困ることがあればそれに対処すればいいだけだし、そもそもほとんど困らない。

どうしてこういうことになるんだろう。この社会は一体どういうことを望んでここまで来たんだろう。そんなくだらない疑問のようないらだちのようなものを考えこんでしまう。

僕のこういう感覚は、澪が
東山和室のないを味わう。
で書いていたものと同じものを別の方向から見ているのかもしれない。物が人を掻き立てる。この方向感のない豊かさは、その豊かさの実現として有る物、それ自身が自分の根拠を主張することで実現する豊かさで、だからこの豊かさはそれ自身を求めて増殖し続ける。


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