May 26, 2015

【166】それっぽさの確信と共有。

平安神宮に来てみた。応天門の下の石段に腰掛けてこれを書いている。

神社というのがそもそも何を祀っているのかということについて、以前そう君に教えてもらった「空っぽの空間」という話を思い出す(無印良品「原研哉氏トークイベント採録」)。

空っぽの空間つまり空き地、それを囲うと「シロ(代)」、屋根をつけると「ヤシロ(社)」。無いということを顕在化させ、意識化したもの。そこには何も無い、しかし、厳然と空間はあって、だとしたら、そこに有る得るものは何なのか。形而下の無存在が形而上の存在を誘発する。つまり、神が宿る。

眩しいぐらいの白い小石が広大な敷地に敷き詰められ、朱い柱と緑の屋根の建物に囲まれている場所。そこに何故か次々と人が訪れる。無い場所に人が訪れる。人が訪れることによって、人が訪れる目的が生じてくる。ここに訪れるべき何かがあるから、ここに来ている。

ここに人が来る目的は無い。
無いという目的を果たすために人はここに来る。
そういう気分になる。

何も無いことによって生じる、何か特別なものが有るに違いないという確信、その確信が多くの人の間で共有できること。何も無くただそれっぽいことこそが神ということなのだろう。


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