これが「京都府」から届く。 行政の仕事の幅広さを感じる。 |
実は、数カ月前にも似たような書類が届いていて、そちらは同年度の「広島市原爆死没者慰霊式の参列について」だったはずだ。封書を開き書類を眺めて数秒間、僕には一体何のことかわからなかった。あぁ、あれかと気がついたのは、父が死んだ時に返却した「被爆者手帳」の古ぼけた表紙を思い出したからだ。
僕の父は広島で被爆している。当時の家は広島市中区大手町2丁目だか3丁目だかにあった。爆心近くの原爆ドームが大手町1丁目だから、幼児だった父が自宅にいれば、「僕」はまずこの世に存在しない。たまたまその朝、祖母と父は出かけていて、とある駅で祖母が父を背負ったその背中側から熱線を浴びた。
だから祖母も被曝しているが、被曝量で言えば父の方が多かったらしい。
まだ小さかった父のために祖母は医者に相談した。当時のどういう知識から医者がそういったのかわからないが「ぶどう酒を飲ませなさい」と医者は答えた。祖母はぶどうを買ってきてぶどう酒を作り、それを父に飲ませ続けた。60年以上後になって死ぬ直前まで毎日父が愛飲しつづけたワインの理由がそのぶどう酒のせいだったかどうかはわからない。
その祖母が死んでからもう10年ほどは経つけれど、その時に父宛に同じように「原爆死没者慰霊式の参加について」が来ていたかどうかはわからない。少なくとも僕のところには届いていなかった。
祖母も父も被爆者ではあるが原爆によって死亡したとは言いがたいほど、生きた。原爆による何らかの後遺症があったかどうか、少なくとも僕は聞いたことがない。被爆二世に該当する僕自身に何らかの影響があったかというと、意識できることとしては何もない。
父は晩年になるまで医療費全額国費という強力な被爆者手帳を使用しなかったようだ。病気がひどくなり医療費が上がってきてから手帳を出したらしい。意図はわからない。
父から原爆のことを直接聞いたことはない。祖母からは子供の頃に「ピカ」「川が死体でいっぱいだった」という言葉を聞いた記憶があるけれど、それしか僕は覚えていない。ぶどう酒の話も含め、上記のことを僕は母から聞いた。
そういう事実がある。
原爆投下から70年たった今、突然僕は自分が原爆死没者遺族「になった」と知ったのだけれど、だからといって原爆死没者遺族を僕は「になう」ことはできそうになくて、遺族席に自分の場所があるとはどうしても思えない。だから「広島市原爆死没者慰霊式の参列について」の書類は捨ててしまった。武道館である「全国戦没者追悼式」にも参列を希望する気はない。
しかし、この夏僕は、広島へ行こうと思っている。
それは「僕」というものが根こそぎ存在しないという仮定を置くことができる決定的な出来事として「僕にとっての原爆」があるからで、70年後の原爆を僕は目撃したいのだと思う。
僕の非存在と共に有る原爆、そういう卑近なところからしか僕は何も見ることができない。
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