どうして人は、他人に過大な要求をしてしまうのか。
自分は他人の要求に応答し得ているのだという自負を「自信」と呼んで奨励するから、「要求と応答」が際限なく継続的に発生し続ける連鎖的な状況を生み出している。自己の成立基盤が敬虔から自信に移行して以来、一貫して進行し続けた。
自分は他人の要求に応答しているのだから、他人が自分の要求に応答することを自分は他人に要求できるという、要求と応答の飽和が生じている。限度を超えた要求と応答の濃度に、我々は自家中毒に陥っている。社会というものは他人への要求と応答によって発生したのに、社会での要求と応答の濃度が、人が生きていくには不的確な水準にまで上がってしまった。高度で緻密な要求と応答は、テクノロジーでブーストされ、高速度カメラでスロー再生しないと目の前で何が起こっているか見えないぐらいである。
だから今や、他人の要求に応えないという「無能」の自負を持つほうが、この要求と応答で飽和した世界には適応できる可能性があるのではないかとすら思える。希望は無要求無応答にあるのではないか。生きている人(お互いに応答の責務を負わなければならない他人)とのつながりを最小化しようとする人の動きは、社会の物質的飽和を基盤として、部分的に確かに成立しようとしている。