今読んだり、聴いたり、考えたりしていることからぼんやりと思いうかんだことをメモ的に書いておきます。(あまり検証していません)
網野善彦、吉本隆明の日本論と天皇論。
いずれも同じようなことを言っている。
「日本」という場所は、単一の種族から成り立っていなかった。
「日本」という場所は、孤立した場所ではなかった。
網野善彦は例えば『日本の歴史をよみなおす』、吉本隆明は講演『宗教としての天皇制』。
ここからは、僕の考え事(思いつき)です。
日本語というものを表記する方法として平仮名、片仮名、漢字がある。もともとは大陸から持ち込まれた漢字から片仮名と平仮名が生み出された。これらの文字を駆使して、例えばこんな文章がさらっと作れる。
最近、日本人のアイデンティティがゆらいでいる。
アイデンティティというのは「identity」であるから、次のように書こうと思えば書ける。
最近、日本人のidentityがゆらいでいる。
この2つの文章は、読んだ時の理解が異なる。
前の表記のほうが後の表記より圧倒的にしっくり来るし、分かった気になる。英語という言語においてidentityという語がどのような状況や文脈で使用されるかを知らなくても、つまりその語の周辺にどのような言葉と経験のネットワークがあるかを知らなくても、アイデンティティという「半日本語」にしてしまえば容易に受け入れられる。
さらにいえば、「最近」というのもおそらくもともとは中国語だったはずで、だとすると、上記の文章は、もともと中国語であった言葉ともともと英語であった言葉を日本語の中に継ぎ目なく組み込んでいることになる。
よく日本人は、海外の優れた技術を模倣するのが得意だと言われる。でも、よくよく見ると単に模倣しているというよりは、日本という場所に組み込むようなことをしている。日本車、家電製品、携帯電話。
もっと簡単に言うと、混ぜている。
平仮名や片仮名といった文字自体も漢字を日本という場所に混ぜるために生まれた。その使われ方も日本以外の言語を日本語として混ぜるために使われている。ように見える。
混ざったものは、混ざる前のものと比べて、濁りがあって不明瞭なところがあったりするだろうし、どっちつかずな状態にもなりやすい。大江健三郎の「あいまい(アンビギュアス)な日本の私」というのは、この混ざりやすさ、すでに混ざっているものとしての日本という場所によって生じてきていることなのではないか。
と書いてきて、椹木野衣の『日本・現代・美術』には実はそういうことが書いてあったなと思いだした。