May 7, 2015

【149】東山の和室を使って旅を練習する。

また東山の和室に来ている。今月は来れる時はなるべく来ようと思い始めている。

昼ごはんは家で食べてから出た。五月分の家賃を払おうと郵便局に寄ってから電車に乗る。回数券がなくなっていたので買う。回数券を買うというのは、未来を確定させるようなところがあるので、少し身構える。この身構えるのは、常にというわけではなくて、反復的な継続性が確保されていない今だから起こることで、未来に向かう反復的な継続性が気持ちを拡大させて経済を振興する効果を実感する。

前回、東山の和室に来たときの反省から、もう少し食の充実を図ろうと思って、実家から使っていない中華鍋を掘り出してきていて、それを良く焼いて、使えそうなことを確認して持ってきている。あとは、包丁代わりにナイフと布団代わりの封筒型の寝袋を一つ。封筒型の寝袋は、これからの季節、人形型の寝袋だと暑すぎるので、封筒型のを二つ使って、敷布団と掛け布団にするといいのではないかという案である。すでに一つ封筒型のは和室に装備してあるので、もう一つ。

中華鍋と寝袋をぶら下げてリュックを背負い連休直後の電車に乗るのはちょっと変な感じがする。どう見えているのか。でもそんなことに注意を払う人なんて本当はいなくて、僕はただ、どこにもいない人の視線を勝手に感じて、変な感じを得ている。

和室に着くと窓から陽が入っていてちょっと暑いので窓を開け、すだれを垂らす。が、それでもあまり日除けになっていなくて、悩んだ挙句、持ってきた封筒型の寝袋を広げて、カーテンレールに引っ掛けて遮光カーテンのようにする。効果的な遮光で、部屋が暗く、ビニールの質感は風情がない。今週の日曜日にここで円坐をするのだけど、その時はどうだろうかとちょっと不安になるけれど、しばらくすると日が雲で陰りだしてきたので、寝袋を外してみたらちょうど心地が良くて、このぎりぎりの行き過ぎるか行き過ぎないかの季節である今がまさに山の頂上のような最高の瞬間なんではないかと思ってうれしくなる。

明後日のゼミの『贈与論』、ちょうど家を出る直前に、注文していた岩波文庫のが届いたので持ってきていて、それを読む。今度のゼミは第二章でその半分ぐらい読んだところで眠くなって昼寝する。起きると自分がこれから先、こうやって何もできないまま生きていけるのだろうかと不安になっていて、何か夢でも見たんだろうけれど、いてもたってもいられなくなっている。どうにか散歩へ行こうと思うのだけど、散歩へ行くまでの段取りがうまくできない。ポケットに『贈与論』だけ突っ込んで、途中スーパーでなにか買って、風に吹かれて気持よく居られる場所を見つけ出してそこで、買ったものを食べて本を読むという、旅的非日常を謳歌すると決めて、ようやく部屋を出る。お金は持たず、クレジットカードだけ持つ。

ウィンドブレーカーを着て外を歩き出すと元気が出てくる。イオンについてウロウロして、まずバナナを買うことにする。もう十九時を回っていて、二十一時に閉店なので店員さんが惣菜売り場でカツや鶏の揚げ物やらをパックに詰めて値下げシールを貼っていて、アメリカンドッグが二本まとめて百四十円になっていて、それを買う。

店を出るとすっかり暗くなっていて、本を読むためには明るい場所を探さないといけないと思って、岡崎のみやこめっせを目指す。とうに閉館していて暗いけれど、街灯があるからそのそばで座って本を読めるようなところを探すけれど、ない。京都府立図書館、近代美術館の前を通るけれど、ない。そのころにはアメリカンドッグを歩きながら二本とも食べ終わっていて、鳥居をくぐって橋を渡ったところのセブン-イレブンの前に行くけれど、特に買いたいものがあるわけではない。そこからさらに南へ行き、三条通へ出る。もう目的はなく、ただ生き物としての走光性に従っている。

三条通を歩いていると古川町商店街が左手にあって、以前から澪と気になっていて行ってみようと思っていたのでそこへ入っていく。時間も時間なので全部シャッターがおりているかと思いきや、ちょっとお酒を飲むような小さくて雰囲気のあるお店が何軒か開いていて、アーケードの商店街には珍しく旅館もある。中には「一棟貸しの旅館」と書かれたところもある。閉まっている店も開いている店も、店の前に店名と短い売り文句が墨字で入った揃いの大きな提灯が出ていて、その提灯に灯りが灯っているからか、閉店時間を過ぎて閉まっている店が多いにもかかわらず歩いていて気分がいい。商店街の終わりまで歩いて行くと白川にぶつかったので、今度は商店街から出て白川沿いに北上して三条通へ戻る。白川沿いは背の低い街灯が、歩いている人の足元を照らすために並んでいる。白川に柵はなくて、奈良の猿沢池にも柵はなかったのを思い出す。夜、ほとんど歩く人もいないけれど、こういうところが観光地で、こういうところを歩くのが楽しいと思えるぐらい部屋を出た時と気分が変わっている。

三条通に戻り、そのまま三条大橋を渡り、鴨川の河原へおりる。西側の広い方の河原は鴨川名物の川床の明かりが届くので本を読むことができるぐらいに明るい。鴨川は「ゆか」と読み、貴船は同じ字を書いて「かわどこ」と読むと母親に聞いたことがある。橋のちょっと北側、芝生に座って『贈与論』を開く。川本真琴に似た声とギターが聞こえてくるけれど、歌っている人は影の中で見えない。その歌い手の頭上には川床で食事をするテーブルの人の影が逆光に映る。僕から5メートルほど離れたところの土手に水面を向いて若い男性二人が座っていて、小瓶のビールか何かを飲んで話をしている。そのさらに向こうにも5メートルほど離れたところに水面を向いた人影が見えるけれど、何人いるのかわからない。川本真琴に似た声の演奏が終わるともう少し遠くから別の、こちらはもう少し甘みの少ない女性の声の歌が聞こえてくる。本の中に意識が入りこむまでの数十秒、何度も同じ行を読み返していると、突如、人が生きていくことは楽しかったり悲しかったりする感覚の中に常に入り込んでいるのだけど、それらが何か重大で決定的であるわけではなくて、ただ次から次へと曲が変わるように歌い手が変わるように僕の前に露出しているにすぎないという感じがして浮遊し、あぁこれが旅というものかと思う。僕は旅が上手にできない。だから、部屋まで借りてベースキャンプを設営し、310円の回数券でやってきては、世界的観光都市である京都の中枢を目指してアタックを繰り返して、そしてようやくほんの数十秒の旅ができた。

本が読めだしてしばらくすると小さな雨粒を感じて、そこで本から意識が出てしまい、だから今の瞬間まで本が読めていたとわかったのだけれど、雨のせいでそれが中断して、それでも読み進めようと思ったものの、ページにできた小さなふやけたシミを見つけて、慌てる。傘は持ってきていない。澪が今日は雨が降ると言っていたのを思い出す。周りの人たちは意に介さないようだけど、僕は天候にはばまれてアタックを中止し、ベースキャンプに戻る決意をする。

帰り道、御池通に出て、やまやによって夜食にタイラーメンとアテにカルパスを買う。もういつものパターンに戻っている。旅は消えてしまった。雨とも言えないほどの雨もやんでしまっている。でももう旅に戻る勇気はくじけていてベースキャンプで酒を飲みながら、日誌代わりにブログの原稿を書きはじめる。


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