February 9, 2016

【280】高村友也著『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』を読んで。

ベタに言うと「結構体張ってるよなぁ」と思う。と同時に同じくベタに言うと「かなり頭いいよなぁ」と思う。普通は同居しない2つのベタが同居している。日本刀でじゃがいもの皮を剥いている感じで、油断すると指がスパっといく。
それはさておき、著者が20ページで訪れた死の観念は、僕にも訪れた。同じように小学生の時で、同じように「僕はいつか死ぬ」と思い、「僕がいなくなる」と思った。その後の僕のいない世界も想像した。一人で布団に入っている時で、頭からすっぽり布団をかぶって、ぼとぼとと涙を流し、鼻の奥をツンツンさせながら、うぇうぇと嗚咽した。死の普遍性から言えば、これは誰にでも訪れることかもしれない。事実ほぼおなじ体験をしたという友人が一人いる。

僕の場合は、これと関連付けられている記憶が2つあって、一つは目の前に30センチ四方ぐらいの四次元空間の窓が現れた。母親が目の前にいたけれど、その母親との間にその窓があって、手を伸ばしても絶対に母親には触れられないと思った。僕の手はずっとずっと遠くの時空に突き出るだけだと思った。四次元空間という言葉自体をその時母親に教わったというのが直接の契機だった。

もう一つは、おそらく一度しか、それも断片的にしか聞いていないはずの「堂々巡り」というラジオドラマをなぜか鮮明に覚えている。これは放送の記録から12歳の時だとわかる。そこからどうにかして抜け出ようとしているにもかかわらず、ドアを開けると必ず元いたホテルの一室に戻ってしまうという怖い話だ。

この頃から僕はSF小説を貪るように読んだ。特に時間旅行ものが好きだった。

ようするに僕は、スッパりとは切り離されなかった。ザッくりとはいったけど、永遠の時間を飛び越えうるという空想に逃れることができる程度に、僕は「残った」のだろう。日本刀の切れ味はなかった。哲学まで一足飛びに行かず、文学に着地した、ということかもしれない。

何か聞きたいことがあるとか、話したいことがあるとか、そういうわけではないけれど、この著者には会ってみたいなと思う。少なくとも、本読みましたよ、ぐらいは言いたいと思った。




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