ムレコはクズコ、クズシリに「ユサブレ」して、それぞれが酒をもつて、そのセブリに来て、はじめて死体(トドキ)を拝む。
三角寛の『サンカの社会』からの引用で、おそらく原典をあたれば「ムレコ」や「クズコ」「クズシリ」「ユサブレ」について説明があるのだろうけれど、『共同幻想論』の中には一切それが出てこない。
とにかく、上の引用の一文を読んでもさっぱり意味がわからないし、像も結ばない。でも僕はこういう一文が大好きである。
「セブリ」というのは「セブリ族」で、おそらく〈サンカ〉のなかの一つの「族」なんだろうけれど、それもこれ以上のことはわからない。「死体」に「トドキ」とルビが振ってあるので、あぁ「死体」のことか、なんてわかったふうに思うけれど、この「セブリ族」にとって、僕達が「死体」だと思っている〈同じもの〉を単に「トドキ」という呼び方をしているというわけではおそらくない。僕達が一般に「死体」に対して持っているイメージと〈彼ら〉が「トドキ」に対して持っているイメージは違うはずだ。
つまりもう何もかもがわからない。しかし、だからといってこの一文にはなんの価値もないというわけではない。
とにかくセブリ族は、〈人〉が死んだ時に、ムレコはクズコ、クズシリに「ユサブレ」して、それぞれが酒をもつて、そのセブリに来て、はじめて死体(トドキ)を拝むのだ。
この日本語の文章として成立しているといえるかどうかすら微妙なラインにあるこの一文が醸し出すなにかを僕たちは読むことができる。それは言語というもののもつ限界に近い領域のなにかである。