February 19, 2016

【291】映画『生きていく』を観て(再掲)

映画『生きていく』

2010年 86分
出演 池田英樹
音楽 hatao 上原奈未 
監督・撮影・編集 神吉良輔
サイト

僅かではあるが自分が関わっている映画だけにこれまで落ち着いて見ること、「ただ単純に見るだけ」ということができていなかった。今日、おそらく初めて、観客として上映会に行くことができた。スクリーンの中で起こることだけに集中することができた。映画をただそこにすでに存在するものとして見ること。それがようやくできるようになった。

まずこの映画は「自分自身以外のために何かをすること」の映画だと思った。一度も北海道を訪れたことがない「両親のために」旅行を計画する主人公の英樹。逆にその「英樹の思いを叶えてやったからいい」と言う母。「英樹のために」尽力する旅行ボランティアと看護師。

中盤、この「自分自身以外」の微妙な食い違いが一つの大きな問題を投げかける。「生命」というものの「ために」働いてきた看護師・山崎の葛藤だ。看護師はその専門性によって、自分の目の前にある生命が通常よりも極めて危険な状態に置かれていることをその場にいる誰よりも具体的に知っているがゆえに、その「生命」が「池田英樹」個人に所属することに揺さぶられる。命のためか、個人のためか。山崎はこの旅行に看護師として同行することで、その線引きを大きく変えていく。

「自分自身以外のために何かをすること」が虚無を内包していることを自覚しているのが英樹である。旅行以外に楽しみがない状態、「ポッカリ穴が開いたよう」な「長続きする目標が見つけられへんからな」という日々を送っている。

英樹は人工呼吸器につながれ首から下を動かすことができないことを毎朝目が覚めた時に知らされ続けている。死が身近にある自分自身を意識させられ続けているのだ。

頚髄を損傷しておらず人工呼吸器もつけていない我々は、毎朝英樹のような死を意識しないですむ。我々は英樹とは違い「死が可視化されていない」という特権を有しているのだ。この特権は「黒人に対する白人」「女性に対する男性」の特権と同じだ。毎朝鏡にうつる「黒人」や「女性」から逃れる方法はないが、逆の「白人」や「男性」の立場では鏡には何もうつらず、意識する必要がない。

英樹にはなく、我々にある特権とは具体的には、「なぜ生きるのか?という問いに答えることなく毎日を生きることができる」である。生きることを曖昧にしたまま生きることができるという特権である。特権のない者、死が可視化されてしまった者は、「それでもなお、なぜ生きるのか?」を常に自らに問われ続けながら毎日をなんとか生き伸びていくしかない。

後半、英樹が自らと同じ症状の人に積極的に会いに行って話をする様子が描かれる。事故などで頚髄を損傷した人たちに初対面にも関わらず会いに行き、話をするのだ。英樹はその理由を問われ、曖昧な答えをした後、事故直後の自分にそうやって会いに来て話をしてくれる当事者がいなかったからという答えをする。そんな人がいればずっと楽だっただろうからと。

この答えは、一見、英樹の行動の理由の説明になっている。しかし本当にそうだろうか。自分がそうだったからということと、逆の立場に立ったときにそれを実行することの間には、往々にして大きな隔たりがある。

人工呼吸器をつけて外出すること、頸髄を損傷し大きく人生が変わってしまった直後の、それも初対面の人と話をすること、どちらもとても大変なことだ。だからこそ、誰も英樹に会いに来なかったのだ。過去に「自分がそうされたら楽になっていただろうから」という理由だけでは到底説明されるものではない。

では、なぜ、英樹は人に会いに行くのか。それは、やはりスクリーンの中に答えがある。頚髄を損傷する事故より前の英樹は、仕事も遊びもバリバリやる活発で行動派であっただろうことが伺える。少年野球では「細かなプレイは苦手。おもいっきり振り回して当たればでかい」。ちょっとやんちゃで話好き。それも、薄っぺらな社交辞令や建前ばかりの中身のない話ではなく、深く喰い込むような「本音」のぶつかり合いが好きだったのではないだろうか。

その「本音の対話」を英樹は失ったのだ。物理的な人工呼吸器の存在が話しかけてくる相手にとって心理的な障壁となり「本音の対話」を阻害し、常に人工呼吸器というフィルターを通した建前の要素が入り込んでくる。そのように感じているのではないか。人工呼吸器は英樹の喉元につながれているが、実は、彼と対峙する者の眼や口にもつながれていて、それを通してしか見たり、話したりできない。

だから、英樹は会いに行くのだ。お互いに人工呼吸器をつけていることで、あるいは頸髄損傷という障害があることで、その存在を「キャンセル」することができる相手に。そこに「本音の対話」の可能性があるから。

結果、英樹は会った人を実際に変えていく。憧れのように「外出してみたい」と語る人を外へ連れ出していく。英樹の旅行や飲み会、花見やギャンブルといった「本音の行動」の経験に裏打ちされたリアリティが「本音の対話」によって伝わり、話を聞いた者を変えるのだ。それは、本音であるがゆえに、英樹にしかできないことである。

「自分以外の誰かのために」何かをすることは比較的簡単に自分を支える理由になる。しかし、自分自身のために「生きていく」理由が必要になる事態に直面した時、自分を支えられるのは一体何か。

「自分のために」やることが「誰かのために」なっているというそのわずかな重なりを信じることはその一つかもしれない。しかし、その「重なり」の存在を自分自身で知ることは難しい。それすらも伝えてくれる自分自身以外の誰かを必要とするのだとしたら、「死が可視化した人」にとって「生きていく」ことは奇跡である。

「あなたのやっていることがたとえ自分自身のためにやっていることだとしても、それが確かに誰かのためになっているんだよ」ということを伝えようとする。この映画はそういう映画である。

2012.1.8 大谷隆


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