February 20, 2016

【293】言語道具説は蘇りつつあるのか。

グーグルで「言語道具説」とやると、まぁ出てくる出てくる。


三浦つとむが「日本語はどういう言語か (講談社学術文庫) で蛇蝎の如く嫌っていたソ連のあいつ曰く、
言語は手段であり用具であって、人々はこれによって、たがいに交通し、思想を交換し、相互の理解に達するのである。(スターリン「言語学におけるマルクス主義について」)『日本語とはどういう言語か』より
この言語観は、一部の人の認識の中では現代も、というか現代においてとくに息を吹き返しているのかもしれません。

言語を「社会的な」交通手段とするという表記がやや古いとすれば、言語を「心理的な」交通手段とするぐらいでしょうか。

時枝誠記が言語過程説によって批判し、時枝さんいいとこついたけどそれじゃぁ半分だよといった三浦つとむや、時枝さんも三浦さんもいいとこついたけどそれじゃぁつまんねえよと「像」を出してきた吉本隆明といった言語に関する歩みから見ると、今更感の強い言語道具説。

でも根強い。根強いなあ。
「言葉の価値は受け手が決める」みたいなの。

もしも「言葉の価値は受け手が決めるんですよ!」って力説されたら、
「その言葉を受けた僕は全くそう思いません」って返せばいいのかな。

まぁ、そんなこと以前に十分に言語は面白いのに。


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