February 12, 2016

【282】妙な感動。その人にとって重大なこと。言語の深度。

僕は時々、妙な感動をすることがある。人の話を聞いていたり、小説を読んでいたりするときに、どうということのないようなところで、悲しいわけでもうれしいわけでもなく、ただ妙に感動して泣けてきたりする。
感動の名場面のようなところで感動できないことについては「僕はひねくれてるのかな」と思ったりもするし、そういう面も多少はあると思う。映画『タイタニック』では、船が沈み始めて、いよいよここからがクライマックスというところで、僕は退屈して寝てしまった。映画でパニックシーンが続くと僕はだいたい退屈してしまうのだけど、こういうのはひねくれている気もしないではない。

でも、逆に、内容としてどう考えても感動するようなところではないのに涙が出てくるということについて、ひねくれているという要素が入る余地はないように思う。

友人とラーメン屋でとりとめもなく仕事や世間話をしている時に、なぜか突然泣けてくるというようなこともあった。特段、盛り上がっているわけでもない小説のある部分で突然泣けてきて電車で困ることもある。

今、思い返せば、そういう時は、僕は、あぁこの人は、本気でそう言ってる、そう書いてる。一般的には大したことではない、ありふれたことかもしれないけれど、この人はこのことをとても重要だと思っている、ということを感じ取っているのだと思う。

そういう他人にとってはどうということがないありふれたことでも、自分にとっては重大なことを話したりするときに、多くの人はサラッと話す。ことさら感動を呼ぶような話し方を必ずしもしない。むしろ、あえて、こんなことは大したことではないというような見かけを取ることも多い。

そんなときにたぶん、その重大さをどこからか感じ取って、僕はそれに感動してしまうのではないかと思う。そして、この「どこからか」というのは僕は「その言語から」ではないかと思っている。

言語というものがもつ深度は言葉として現れる見かけ以上に深い。それは人全体の深度に匹敵しうると僕は思っている。ただその深度を常に感じ取ることができるわけではないのだけれど。


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