その時代のその領域(ディシプリン)で突出するほど優れた人は異端の位置に現れざるをえないと思う。異端者が自らこそが正統だと言うか、自らをその領域外に位置づけようとするかにかかわらず、その領域の根底を揺るがし原論を問うことになる。
正統の意識が発展という枝葉に向かうとすれば、異端の意識は根源へと向かう。
今まで読んできた本で言えば、パウロ・フレイレは教育の、網野善彦は日本史の、吉本隆明は文学の根源を問い、それぞれの領域に対して前提を揺るがした異端である。
かれらが正しいか間違っているか、その試みが成功し新たなる正統となるか、失敗し異端のまま消えていくかは、その異端者にとっては結果にしかすぎない。ただ突出するほど優れていたということだと思う。
優れているというのは、その意識が根源に向かい、前提を疑う態度を持ち、自ら検証することができるということだ。