うちにある唯一の時計らしい時計は懐中時計で、部屋の柱にかけていて壁掛け時計代わりに使っている。スイスの鉄道会社が採用している時計で、シンプルなデザインの文字盤と針は遠くからでも見える。
大谷さん、いつも腕時計とかしてないので時計がいいかなと思ってこれにしました。と大学院を退学するときに後輩の一人から渡された。研究室のメンバーでお金を出し合ってくれたらしい。
僕が腕時計をしていなかったのは手に何かを巻きつけるというのが感覚的に気になって馴染めなかったからだし、そもそも時間そのものをすぐに確認できてしまうということ自体もあまり好きではなかったから時計を持ち歩かなかったわけで、もらった時はちょっと戸惑った。けれど、わざわざ僕のためにお金を集めてくれたのだからと、ありがとうと受け取った。この時計を選んでくれたのはおそらく僕に直接手渡してくれた後輩で、ちょっとズレたところがあったけれどいつも悪気のない素直な後輩なのはよくわかっていた。
その後、僕は就職して一、二年はスーツのズボンのポケットに入れて使っていたが、電池が切れた時に交換までする気になれなくて、そのまま机の引き出しにしまったおいた。時計を持ち歩くのはやはり性に合わなかった。それがもう15年ほども前の話だ。もう15年ほども前なんていう言葉を僕は使うようになった。
その時計を壁掛け時計代わりに使うようになったのは2年ほど前からだ。いろいろと物を減らそうとしていた時期に机の奥からそれを発見した。外見は特に古い感じもしなかったが、止まってから10年はほったらかしにしていた。もう使うことがないということなのかもしれないと思った。だからといってリサイクルショップに持ち込むような気にもなかなかなれなかった。どうしようかと悩んで、ダメ元で大手の時計修理チェーン店に持ち込んだ。電池交換をしてみるとあっさり動き出した。それから部屋の柱にぶら下げて壁掛け時計代わりに使うようになった。思っていた以上に、その部屋にいる時はこの時計をよく見た。
それが最近、まだ外が明るいのに7時を指したりするようになった。秒針が止まっているところを見たわけではないけれど、何度時刻合わせをしても遅れるようになった。どうやら電池が切れかけているらしい。ネットで調べると新京極に時計の修理店が見つかった。修理専門店で販売をしていないこと、店の入り口は一見メガネ屋に見えることなどと一緒に次のような一文があった。
他店で断られた時計でもなんでもお持ちください。
利用者のコメントでも、何店も回ってあきらめていた時計があっさりなおった。海外で買ったイミテーションでもなおしてくれた。とあった。修理というのはある意味で作るよりも難しい。どんなものが持ち込まれるかわからない。どんな構造をしているのか、どんな部品を使っているのか、事前にわからない。修理する場合にどういったことをするのか、それでどこまでなおるのか、修理メニューが複数ある場合、それをきちんと説明して選ばせてくれた。そんなコメントも見られた。早速、僕は懐中時計を持って店に行くことにした。
新京極を歩いていくとそれらしい店があった。メガネ屋に見えるというレベルではなく、まるっきりのメガネ屋だった。中を覗くと、若い女性のいかにもメガネ屋さんの店員という感じのスタッフが一人いた。他には女性客が一人いてメガネのフレームを選んでいた。それほど広くない店内を見渡してみたが、店の奥にでもあるのかと思っていた時計修理のカウンターのようなものは一切なく、見渡す限り普通の今時のメガネ屋だった。スタッフの女性は静かにその女性客を見守っていた。彼女は過度に話しかけないでやわらかくただ立っていた。僕は、あぁこの店員さんならメガネを買う時にいつも無駄にドキドキしてしまう感じがなくて買いやすいだろうなと思った。
しかし、今日はメガネを買いに来たわけではなかった。どうしようかと思っていたら、彼女と目があったので、時計の電池交換なんですが、と切り出したが、見えていた景色と自分で言ったことのズレが気になって、自分がおかしいのではないかという気分が少しした。
彼女は、さも当たり前のように、5分ほどかかりますが、と言い、ようやく僕はホッとした。そのまま彼女は店の奥の一角へといき、僕の時計を布で拭いたり、眺めたりしたあと、何か道具を使って作業を始めた。低いパーティションで仕切られていたので手元は見えなかった。
僕はてっきり彼女はメガネ屋の店員で、時計が持ち込まれた時は奥から別の職人が出てくるものだと思っていた。その想像上の職人は、古びた前掛けをしてちょっと腰の曲がったおじいちゃんで、まぶたで挟むレンズを使って作業するはずだった。しかしそんな気配はなかった。
しばらくして女性客が彼女のところへ言ってなにか話を始めた。おそらくフレームを決めたのであろう。彼女は作業の手を止めて対応した。次に二人は視力検査の機械のところへ移動した。メガネ屋のスタッフとしてはごく当たり前の行動だけれど、僕には不思議に思えた。
やがて二階からもう一人、店の人らしい中年男性が降りてきた。男性は彼女と話をしたあと、どうやら僕の時計の作業を引き継いだらしく、しばらくしてその男性が僕のもとにやってきた。
電池交換完了しました。検査もしましたが異常はなかったです。1500円になります。
僕はお金を払って店を出た。時計はまたしばらく動き続ける。そしてまた電池が切れる。そうしたら、僕はまたここへ来る。