本の中で主観と客観という言葉が出てくるのだけど、この言葉の使い方というか意味するところがどうやら僕のイメージしてきた「主観、客観」とかなり異なるようだ。トムがいろいろと話してくれたことを僕の理解の範囲で書いてみる。
この本の著者は四半世紀をアメリカで過ごしたあと日本に来た時の「違和感」をもとに本書を書いている。だから、この本で使われている日本語は、英語から変換されたものとしてのニュアンスを持っている。
主観と客観は英語でsubject、object。まず「ject」というのは「投げる」というようなイメージらしく、subjectからobjectへの方向感があるという。S→Oのようなイメージ。つまりSは「元(もと)」、Oは「的(まと)」。またobjectは「物」だから、物から見た見方というような意味にもなるらしい。人ではなく物というところに改めて僕は驚いた。
なぜなら、日本語で言う主観と客観の僕のイメージは、主観は自分からみた観方で、客観は自分以外のあくまでも人(客)からみた観方という感じだったから。客観といった場合に「誰がみてもそう観える」というような意味合いだった。みている方向はあくまでも同じで、みている人が違うのだと思っていた。
たとえば「1+2=3」にたいして「誰がみてもそうだ」という意味で「客観的」という言葉を使っていた。そういう意味において数学は客観的だと言っていた。(逆に言えば、自分がみようと思えば、数学を主観的にもみることができるということでもあるけれど。)
僕の英語力の範囲は微々たるもので、僕が見落としている部分はとても大きいことを承知で踏み込んでみると、今僕が「subject、object」の訳語を考えるとしたら「元観、的観」ぐらいかもなと思う。でも、これだと方向感に重みがつきすぎて、それはそれで弊害が出てきそうではある。
いまさら、よく考えてみると確かに主客という言葉は方向感も持っているから、その方向感を感じながら使えばよかっただけの話かもしれない。