February 14, 2016

【284】書く言語空間。親和性が低いとき。

そういえばまるネコ堂は「言葉の場所」というキャッチコピーを掲げていたなと思った。ここ数日、言語空間ということを考えている。

書く場合の言語空間は、書き始めるまでは言語空間がない。言語空間は書いたものを読むことによってその存在を認識する。書いたものを読むのは、書いている時には自分で書いて、それを自分で読む。うまく書けているという感じがするときは、言語空間が書こうとしていることに対して親和性が高い状態で、うまく書き進められないときは親和性が低い。

たとえば少し時間をおいてみるとこの言語空間からの離脱がはじまる。親和性が低い言語空間から離脱するととたんに書きやすくなる。ただし文脈のつながりは途切れる。途切れてはいけない場合と途切れてもいい場合がある。時間をおいたうえで再度つながりを持とうとすると、それまでに書いた部分を読むことでもう一度言語空間を再生する。

言語空間というのは書く場合においては文体といってもいいかもしれない。言語空間を変えるためには時間的に離脱する他に、意識的に文体を変えるということもできるわけで、そのとたんに書きやすくなってどんどん書けてしまったりして、その場合も明らかな段差が生じてこんなふうな、もとの文体のブツブツした感じがいっぺんにだらりとした雪崩っぽい感じになる。

やってみると意外なのがうまく書き進められないときに書いたことにはそれなりの独特の感じがあって面白いし、書きやすく書いた時が必ずしも後で読んで面白いと思えないことがある。書きやすい言語空間を構築して気持よく書くということと、書きにくい言語空間でもそれを維持しながら書くということと、どちらも良し悪しがある。

書きにくい言語空間を維持しながら書くというのは難しい。そんなに長くは書けない。書きたいと思っていたことがあっという間に終わって、すでに書かれたものから自動的に次が生成されて行く感じが少ない。狭くなっていく言語空間を一歩一歩切り開いていく必要がある。ただ言語空間に馴染むということも起こって、たどたどしいまま進むこともできる。極端に語彙が減っていく感じもある。

直前に書いた文を頼りに次の文をという感じで近視眼的になる。その近距離の視野の中でなんとか進む。勢いがないから、勢いに任せることができない。その分、曲がるときに遠心力が働かない。ガクガクした感じで曲がる。滑らかさはないが、狭い視野の中で最適な方向に小さく進む確かさもある。

一歩一歩確かめて歩くという気分の良さは、突き詰めれば言語空間をいちいち作り出しながら進むということにある。読む方にとってはかなり気持ち悪い。どこへ行くのか予測ができない。こういう被虐的な書き方をしていると自分に何が起こるのか。書くときの気持ちよさの種類が違う。これはこれで気持ちいいとも言える。

目標物がない場合には、近視眼的にしか書けない。目標物があるときは、その目標物から逸れないように行く必要がある。逸れないようにしていても逸れる。最初にイメージしたことと違うことが現れる。そうすると目標物自体がブレる。軌道修正をすることもできる。しないこともできる。軌道修正は修正中は言語空間の壁をななめ向きに掘り進む感じがある。

目標物のない近視眼的な書き方は鎖につながれていない動物のような危なさがある。読んでいると、いつその動物が自分の方へ向かってくるかヒヤヒヤする。何を書きたかったのかはもうずっと遠くになった。これが言語空間にとって何かであるかどうかはもうわからない。

これと同じような気分で書いた以前のエントリー
【190】たとえばこんなふうに書いてみる。


Share: