January 18, 2015

【057】言葉というものは思っている以上にあやふやなのだと思う。

厳密に同時刻に同じ景色を見るというのも、
それだけで奇跡。視点の高さだって違う。
言語化するというと、何か不定形のものに確固たる形を与えたかのように思えるけれど、どうにかこうにか言葉として出してみたというだけで、現した人にとっても、それがうまく言い得ているかどうかは、その都度レベルが違って、これはうまく言えた、これはいまいちだったというような差が出る。

もちろん「うまく言えた」と思える瞬間は、言った人にとってはとても幸福で、それ以上は要らないと思ったりするけれど、そういう場合ですら、その「うまく言えた」言葉を聞く人が必ずしも言った人と同じ景色を見れるわけではなく、聞く人が見てきた景色の中で似ていると判断されたものからの合成写真でしかない。

言葉の「意味」が言葉で表される以上、どこまでいっても言葉を共通の体験として得ることはできない。辞書だって、ある言葉の意味を別の言葉で意味付けようとする以上、どこまでも循環しつづける。例えば「意味」という言葉の意味が言葉を使わずに、他者と共通の体験として得られるのであれば、それを元に言葉全体を他者と共通のものとして組み上げることができるかもしれないけれど、そういうわけにはいかない。

言葉という大きな体系全体が、それぞれの人の中でのそれまでの意思疎通体験のトライアンドエラーの集積としてしか成立しない。

過去において現在とは違う意味で使われていた言葉にまつわる他者との意思疎通は、その意思疎通そのものが、現在の言葉によって現在に人の間で行われる以上、まるで自分で綱を張り替えながら渡る綱渡りのように、そこまで行かなくても自分で綱を揺すりながら渡る綱渡りのように危険なものとならざるをえない。

言葉の意味にまつわる言葉の交換は、多重露光しながら多くの景色を重ねあわせるようにして交わされることでしか得られないのかもしれない。



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