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グーグル翻訳。順序が「定冠詞と一神教」だと
定冠詞theは入らない。 |
少し前にトムと出会った。
トムのお父さんは日本人でお母さんはアメリカ人(だったと思う)。トムは英語とスペイン語と日本語ができる。トムのことを知ったのはけんちゃんからの誘いで、最初「トムという人と知り合った。彼を先生に英会話教室みたいなものをやるから来ないか」という話だった。
僕は英会話には興味が持てなくて、せっかくけんちゃんが誘ってくれているのにどうしても乗り気になれなかった。だから、言い訳じみたメールを書いて行かないと伝えた。伝えたものの、なんとも自分に対して嫌な感じが残った。
僕が外国語に興味を持てない理由ははっきりしている。苦手だからだ。特に英語がとても苦手だ。なまじ言葉を扱うことを仕事にして、そのことに得意でいるから、言葉が通じないと完全に手も足も出なくなる。それを僕はよく知っていて、その感じを味わいたくない。これはもう不安というレベルの話ではなく、恐怖としてある。
にも関わらず、そのトムに別の機会で直接会うことになった。けんちゃんと同じフェンスワークスのそう君のはからいでだった。
一泊二日、トムやけんちゃんやそう君たちと一緒にいた。先に帰るというトムを駅まで送ることになって、道すがら僕はトムと少しだけ話をした。それまで、寝袋を広げる場所をお互い確認した以外に二人きりで話したことはなかった。
みんなと一緒にいるときにはトムも僕もそこにいる全員に向かって話をしていたから、トムがどのような話し方をするのかはわかっていた。
「トムは言葉を正確に使いますね」と僕は言っていた。言葉少ななトムの日本語の話し方が好きだったし、それをなんとか言い表したかった。こんなことを言われて当惑するだろうかと思ったが、その時は他に言いようがなかった。
僕は小さい時、文字に興味があった。文字や言葉を覚えるのが好きで、本を読むのが好きだった。小学校に上る前から絵本ではなく本を読んでいた。親はどんどん本を僕に与えた。少しずつ本の対象年齢が上がっていって、実年齢との乖離が起こり始める。すると本の中に僕の知らない言葉が現れ始める。知らない漢字も出てくる。そういうものに遭遇すると僕はいちいち親のところへ行って「これなに?」ときいていた。
親も最初は丁寧に教えてくれていただろうけれど、そのうち面倒になる。ほどなく、国語辞書と漢字辞典をよこして、使い方を教えた。
それ以来、僕は大半の言葉の意味を辞書で最初に知ることになる。辞書を引く習慣ができてよかったね、ということではなくて、もっと重大な結果として、僕は言葉というものの意味と使われ方を優先して辞書から写し取っていった。
おとなになってから、そのことの特殊性に気がついたけれど、多くの人は言葉をそのようには習得しない。おそらく母語であれば特に、また外国語を上手に修得する人も。言葉はそれを使う人がどういう状況と意図で使っているかを内包してその意味と使われ方が伝達されていく。どのような状況と意図で使っているかを共有することの方が、言葉の意味が辞書通りかどうかよりもずっと重要なのだ。僕はそのことにとても長い間気が付かなかった。
おそらく僕は、そういう成り立ちによる僕の言葉に対する見え方とトムの日本語の話し方に似たものを感じたのだ。トムの日本語の話し方は、言葉をとても正確に扱おうという意思が感じられた。トムは辞書で日本語を学んだわけではないかもしれないけれど、どこか僕と同じような感覚を持っている気がした。
「トムは言葉を正確に使いますね」と言ったのはつまり、僕たちは似ていますねということを伝える暗号のようなものだ。
その初めての出会いからしばらくして、今度はフェンスワークスのひとみちゃんから2回目の英会話教室があるから来ないかと誘われた。僕はあっさり行くことにした。トムと会って話がしたかったからだ。
2回目の英会話教室のその日まで、それでもやっぱり英会話教室というものへの恐怖はあった。参加する顔ぶれから典型的な英会話教室にはなりえないことには確信があったけれど、それでもなにか英語的なものへの興味関心を基礎にした場になってしまったらどうしようかと思って、あらかじめ2つの質問を僕は準備した。
その2つは、僕のように日本という文化に閉じ込められている者にとって、どんなに想像しても得られそうにない視界で、実際にいまだかつて僕をそこに連れて行ってくれる人はいなかった、僕にとってはそんなところにある問いだ。
「いくつかある一神教の神は同じか」
「定冠詞とは何か」
一神教と定冠詞は全くバラバラに僕の中に異物としてあって、どうしても消化できない。消化できないがゆえに、僕にとってかろうじて興味を持てる「英語」にまつわるトピックであり続けている。
英会話教室の日、会場のトムの実家に着いて、予想通り「英会話教室」という呼び名からかけ離れた場が続いた。もう大丈夫だと思えて安心したのか、逆に準備してきたものを試したくなった僕は休憩時間に思い切ってトムに質問してみた。
「いくつかある一神教の神は同じか」
トムの答えは日本語で「必ずしもそうとは言えない」という、とても誠実なものだった。僕はそこからなんとか進みたかったけれど、僕には取り付く材料もなければトムから何かを引き出す能力も無かった。
2つ目の定冠詞は質問するのをやめた。質問しても一つ目の質問と同じように、いやそれ以上に僕の材料と能力の不足が露呈するだけで、何も話が始まらないだろう。
この時ほど僕は、英語が話せるようになりたいと思ったことはない。英語で一神教と定冠詞についてトムと話がしたかった。一神教も定冠詞も、日本語以外の領域に属するものである以上、日本語でたどり着けるところには無いのではないか。
だとしたら、僕が英語、もしくはそれ以外の適切な外国語を修得する以外にはない。こうして書いてきて今、僕はすがすがしいほど絶望的な気分でいる。