コーヒーのネルを固定する器具。 これも澪に作ってもらった。 |
最初は焙烙を使っていた。焙烙というのは急須に似ていて、持ち手のところが筒状に穴が開いていて、煎り終わった豆をその穴からザラッと出す。でも、一回にできる量が50グラムしかなくて、すぐに無くなってしまうので、しばらくして150グラムできるアウベルクラフトのくるくる手で回す焙煎機に変えた。
それをかなり長い間、使っていたのだけれど、それでも頻繁にコーヒー豆切れになる。だから澪に出会って大きい手回し焙煎機を作ってもらった。大学で溶接ができるというからだ。
覚えているのは澪と岡崎の近代美術館に行った時に、雨水や川の水を浄化する機械が展示されていて、自転車に搭載されたそれは、だから自分で漕いでいって、水があるところでさらに自分で漕いで浄水する。その機械というか作品の水を吸い上げる部分の筒状のパーツが焙煎機の筒状のものとそっくりで、これから焙煎機を作らなければならない澪が大喜びして観察していた。
初めて作ったにしてはよく出来ていて、ちゃんと焙煎できた。軸受けのところに油を塗るとキイキイなる音もほとんどなくなるとわかって、そういう機械的なことがわかってくるのも楽しかった。僕もうれしくてお礼に一生分のコーヒー豆をプレゼントすると約束した。
それでも、もっと一度に大量に焙煎できないものか、いっそこれでできたらこの手の道具はみんな手放せるんじゃないかと思って中華鍋でやってみたら、あっさりできた。中華鍋を手放した今はフライパンで焙煎している。400グラムぐらい一度にできるし、専用の道具も必要ない。これ以上を追求する必要はなくなった。
コーヒーが好きな人はとても多いし、コーヒーの味を決める大きな要素は豆の銘柄や値段ではなくて焙煎してからの時間で、つまり鮮度だから、新鮮な我が家のコーヒーを飲んだ人はだいたい美味しいと言ってくれるし、その美味しいやつを自分で焙煎しているというと驚く。
焙煎の仕方を教えて欲しいとか、生豆はどこで手に入れているのか、と言われて、実際に焙煎を教えたり、ネットショップのURLをメールしたりする。
一時期、自宅でイベントをやるのが好きだった頃、コーヒー講座と称して、コロンビアの浅煎りと深煎りとそのブレンドを飲み比べてみて、味がどう変わるかなんてことをやってみたりもした。コーヒーについてなにかやる以上はと、フェアトレードの話も読んだ本の知識を披露してみたりもした。世界のコーヒー豆の流通はたった4つの巨大焙煎会社でその殆どを扱っていて、その4つの会社によって相場が決定されてしまっているのです。
でも続かなかった。そういうことがやりたいわけではなかった。
同じようなことは、ベーコンも自宅で作っていて、ベーコンの作り方を聞かれたり、やりたいと言われる。そういうときはベーコンの日を決めて一緒に作る。それはとても楽しい。でも、それをベーコン講座としてやる気にはなれない。
やる気になれないだけで、やろうと思えばできるし、きっとそれなりに楽しく、それなりに満足感を得てもらえる。僕には、こういうことは他にもあって、そこそこうまくできることで多くの人はやっていないことをやってみせるというのは簡単で、飽きやすい。
そういう意味で書くことの講座をやることになった時、僕にとって書くことは特別なのだとわかった。
編集の仕事をしてきたので、文章を扱うことへの自信という意味ではコーヒー焙煎なんかよりもずっとある。でも、それが本当に講座として求められているのかについては全く自信がない。いや、求められているとしても、それを満足行くようにやることに自信が持てない。
コーヒー焙煎のほうがずっとずっとやりやすい。
知らないことが多いということがそれを可能にしている、といえばそうなんだけど、それ以上に実感としてあるのは、いくらコーヒーが好きだからといって、僕は、それが僕自身の一番大事なこととして位置づけてはいない。
編集は、文章は、書くことは、読むことは、それに比べて圧倒的に中心だ。僕の最後の場所であり、最初から居た場所。
そういう場所を他人に開いて見せるのはとても怖い。でも僕が居るのはそこなのだから、そこでやること以外に僕ができることなんてない。
でもほんと、怖くて仕方がない。
言葉の場所というところは、僕にとっては一番好きで、そこにこそ居続けたいと思っているから。