会期初日の展覧会に行くなんていうのは 初めてかもしれない。 |
京都国立近代美術館の「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」。
ゲルハルト・リヒターが良かった。いや、それまで知っていたとは言えない画家だったので、この展覧会で出会った。キャンバス全体を長い木材でなぞって絵の具を多層に塗りつけていく手法の『抽象絵画』(1990)が衝撃だった。
上層の色とまったく脈絡のない下地の色が表面に引きずり出されている。塗装が剥げて地金が出て錆が無様に露呈している鉄骨のように、今、僕の周りを覆っている現実の向こう側にある、非現実というか現実の地金のようなものが露出してくる。
ここにアンドレアス・グルスキーの写真が加わる。
『メー・デーIV』(2011)は、大画面全体を覆う人々の群れを俯瞰で見下ろしている。だれかが「ウォーリーを探せ」みたいだという。近づいてみるともちろん人は一人ひとり違っていて、向きも動きも服装も多様なんだけれど、少し引いてみるとその違いは消えて平らな画面に押し付けられた「壁紙の柄」のように見えてくる。
美術館を出て、アスファルトの上の横断歩道の白い塗装面の平面性に引きずられて、さっき見たグルスキーの写真の効果を思い出す。道の上を歩いていたり動いていたりする人や車やバスがグルスキーの写真のように平らになっていって、僕の周りに立つ壁の壁紙に見えてくる。その壁紙が次の瞬間、リヒターの絵のようにべろりと剥がれてその向こう側にある地金が見えてしまうのではないかと恐怖する。現実が剥がれてしまったあとにあるのは、形而上学的な世界。
こういうふうに文字で書くと、そういった非現実的なエフェクトがかかった映像(例えば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の使徒)が頭のなかに容易に再生するけれど、リヒターやグルスキーはそれを写真や絵でやる。一度見てしまった人に対して、その人の「実際の現実」が剥がれ落ちたり、平らに押し付けられたりすることを生じさせる。想像させるのではなく網膜に映写するように。優れた絵や写真にはそういう装置性がある。
帰り際にリヒターの本を買った。