April 2, 2015

【113】死体に触れたいと思うわけ。

そういえば牛革も死体。
そして、触りたくなる。
この間、道を歩いていたら小鳥が息絶えて落ちていたので、その死体を拾ってすぐ横の神社の敷地の土のあるところへ移動させた。それを見ていたぱーちゃんにしばらくしてその時のことを、

「大谷さんが小鳥の死体を素手で拾ったのを見た次の日かに、イタチか何かの死体が道に落ちていて自分もやろうと思ったけどできなかった」

と言われた。

死体を触ることへの躊躇というのは僕にもとても良くわかるし、僕にもある。そしておそらく生物としての合理性もある。死体に近づくこと、触れることはその死体の死因がまだそこにあるかもしれないわけだから、それに近づきたくなくなる心理というのは本能に組み込まれている必然性が高い。

でも、僕はなぜか死体を見ると触りたくなる。そのまま放置しておくことで死体が粗末な扱いを受けるかもしれないということに耐えられない気分になる。小鳥や小動物の場合だとできれば埋葬したいし、それが無理なら、より自然な形で土に還ることができる状況に置きたい。それでも、死体への不気味さがないかといえばそんなことはなくて、やはり死体は不気味だとは思っている。

人間の死体はそれほど多く見たり触れたりする機会はないのだけれど、お葬式やお通夜に行った時に、可能であれば僕は遺体に触れる。去年の父の葬式の時に見るともなく見ていたのだけど、遺体に触れようとする人は極めてまれだった。でも全くいないわけではなくて、そういう人はかなり強い意志を持って、できることなら顔を直接見たいとか、お棺の蓋を開けて欲しいとかそういうことを言う。僕はあぁ同じような人がいるんだなと思ってよろこんでそうしていた。

死体に触れたいというのは、死を悼むというような意味合いではない。死を悼む気持ちがないわけではないけれど、僕のそれが他の人と比べて突出しているという感じはまったくしない。だから、あくまでも死体に対して生じるものなんだけれど、その理由らしきものとしては死んだものとの回路を開くという感覚がある。

死んでしまった存在との意思疎通というか意思というほどまで行かない何かの交通のようなものがもしも可能だとしたら、それは死体に直接触れるということ以上の方法はなくて、たとえばお墓の前で手を合わせるみたいなことでは、僕には回路が開く感じがない。

回路というと安定した何かをイメージするけど、もっとかすかな、ノイズのようなものといったほうが近い。もちろん、死んでしまった存在と何かを通じさせるということは不可能だというのはわかっているから、そういう何かしらの信号のようなものは、すべて僕の中に生じているものに過ぎない。ということもよくよくわかった上で、僕の中だけの現象に過ぎなくても、死体に触れることからしか生じない何かがある気がして、そのために死体に触れたいと思ってしまう。

そういえば、ぱーちゃんはなぜ自分も死体に触れようとしたのだろうか。そういう行為に何か惹きつけられるものがあったということになるし、それは僕のそれと同じ感覚なんだろうか。


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