身近で最適な他者としての猫。 |
正確ではないけれど、覚えている限りで書くと「このブログに書いてあるような生き方をしたいけれど、たぶんそうしたら自分は無理をする。大谷やパートナーの澪は無理ではなくそれを楽しんでいるように見える。」
それを聞いて僕は、とにかくもそういうことを聞けてよかったと思って、ただ「聞けてよかった」と返したと思う。その時はそうとしか言いようがなかった。
僕のブログに書いてあることや僕達の暮らしというものが果たしてそれに値するか、ということは一先ず脇においておくとして、この人にはとにかく一つの絶望がくっきりとある。
憧れというものは他者である。その他者という異物をそのままの形で自分というものの中にぎりぎりまで入れてから拒絶し、もう一度吐き戻すような行為は、絶望である。一方、絶望できない人は、どこまでも他者をすりつぶして消化吸収し自己の一部にしようとする。
他者と居るためには、他者を何とかそのまま飲み込もうとして、それでも嘔吐するということを続けていくことしかない。体を折り曲げて吐き戻し続けるしかない。飲み込む時にも吐き出す時にも全身で拒絶し泣くしかない。
生命のスープのようにあらゆる他者が溶け込んだ媒質を想定して、そのなかで心地よく互いに分かり合え、分かち合えることを続けている限りは他者というものは出現しない。そういう何かを探し続けても他者とすれ違うことしかできない。
絶望できる人だけが他者と出会えるのではなくて、他者と出会うことが絶望なのだと思う。