April 14, 2015

【122】ゲルハルト・リヒターの流儀。

振り返るブレた猫とリヒター本
画家ゲルハルト・リヒターは1961年、旧東ドイツから壁が崩壊する直前に西側へ移ってきた。彼の特徴は、彼自身が書き留めたノートからはっきりとわかる。
84年4月23日 私はイデオロギーの助けなしに考え行動し続けてきた。私には助けとなるものはなにもないし、信奉しなにをすべきかを教えてくれるような理想もないし、行動の規範もないし、進む道を示してくれる信仰もないし、未来像も、したがうべき意味をあたえてくれる構想もない。
そこにあるものを認識するだけである。だから知らないものを描写したり、イメージしたりするのは無意味だと思っている。[ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論、250p]

リヒターはイデオロギーを否定し続けてきた。

イデオロギーは現在では政治的な意味合いを強くもっている言葉だけど、もともとは「観念の体系」「世界観」といった広く(そしてあいまいな)概念で、引用した文章を読むとリヒターも広い意味で使っていることがわかる。

「何をすべきか教えてくれ」「進む道を示してくれ」「従うべき意味を与えてくれ」るものとして。

僕達の生きる現代においては、イデオロギーという言葉は「濃すぎて古臭い」感じがする。今は、もっと曖昧で、やわらかく、肌触りの良い「ストーリー」とか「物語」という方がしっくりくる。ただし、その現象するところは「イデオロギー」と同じ。

そういうものは誰もが望んでいる、そういうものがあれば「希望」に満ちた「未来」を生きることができる、そういうものを誰もが手に入れた時、世界は「平和」になる、という幻想を伴う言葉。

リヒターの前述の文章は、こう続く。
イデオロギーはつねに人を扇動して無知を利用し、戦争を正当化する。[同]
ストーリーが戦争を正当化するかどうかはともかく、人を扇動して無知を利用するのは確かだと思う。

それに対して「そこにあるものを認識するだけ」というリヒターの流儀は、どうしようもなく存在してしまう自分自身を認識することから始まる。何も描くことが無いことを知っていた画家の流儀。何もかもを、もう一度「認識」することから始めるやり方。


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