April 19, 2015

【127】付箋は要らない。一時的な「便利」からの脱却。

剥がされた付箋をなるべく美しく撮ってみた。
以前働いていた会社の新人がとても美しい付箋の使い方をしていて、それがとても印象に残っている。

オーストラリアに留学して修士をとったという彼女は、A4のレポートの読むべきページの右肩に小さめの付箋をじゃまにならないようにほんの少しだけ先が出るようにして、きっちりと並べて貼っていて、そこのページを開くと大きめの付箋に彼女によってコメントが書き込まれて該当箇所のすぐ下か横に貼られている。

コメントに書かれた指摘の適切さや着眼点の鋭さもあいまって、その印象がとても強くて、僕はそれ以来その付箋の貼り方、といっても右肩に小さな付箋を綺麗に並べて貼るというところだけを真似するようになった。

全然畑違いの分野から流れてきて「環境報告書」の仕事をするようになった僕とは違い、彼女は生粋の「環境畑」であぁこれが本当の専門家かと思わされた。オーストラリアの人々が日本人をどう見ているのか。オーストラリアの政治家が日本というものをどう利用しているのか。捕鯨、植林、そういった言葉にまつわる現実を教えてくれた。ソローの『森の生活』を教えてくれたのも彼女だ。

付箋は、そういうことを思い出す。そんな付箋をもう使わないでおこうと思う。美しく使えない、僕には。いまさらだけど。

本を読む時になんとなく貼っていたのだけれど、貼りだすとどんどん貼ってしまって、結局あとからそのページを探すのになんの役にも立たない。後から読んだ時に、以前はここに付箋を貼った、つまり何かしらひっかかる部分であった、ということがわかるぐらいのものでしかなく、そういう意味では線が引いてあるから付箋は要らない。

付箋はあくまでも一時的に「指し示す」ものでしかない、メタ的な存在であって、恒常的に指し示される側に存在するものではない。僕は総じて一時的な役割のものをうまく使えない。近い将来において役に立つかもしれないけれど今ではない、という事象を自分の中にカテゴライズできない。そういうことをすると、ちょっと気になった何もかもがそこに投げ込まれて乱雑に放置され、二度と取り出されることはない。

僕には付箋を使うための能力が足りなかった。


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