April 16, 2015

【123】父の遺品の本を処分する。僕が死んでいられる時間。

本がインデックスとなり、それにまつわる何もかもが
蓄積されていくアナログのデータベース。
しばらく手を付けられなかった父の遺した本を今日少し整理した。どの本もたいてい線が引いてあり、書き込みがあり、付箋が貼ってあり、新聞などの切り抜きが挟んである。古本屋に売るには不都合で、そのことでイライラする。こういった本になされた行為の数々から、彼が永遠に生きるつもりでいたのだとわかる。事実、死ぬ直前まで彼は本を読み、文章を書こうとしていた。彼にとっての死と僕にとっての死とは同じではないのかもしれない。死は誰にでも平等に訪れるけれど、その死が同一のものであるとは誰も確認していない。

生きているということが、ある一定期間何かをすることができる遊園地のパスポートのようなものだとしたら、楽しいことをやって、美味しいものを食べて、ヘトヘトに疲れたら休んで、たっぷりと幸せな時間を過ごして、後はのんびりと閉園時間を待つだけだ。幸せな時間を過ごしたいのであれば、誰もがそのパスポートを手に入れて、有効期限を有効に活用すればいい。それがどんなに充実し、楽しく、幸せであろうと、結局のところそれは、充実し、楽しく、幸せであるに過ぎない。生きていることに価値があるのは、ただ幸せであるからに過ぎないというのは、とてもつまらない。

死はもっと違う。

サスペンスドラマなんかで「自殺しようとしている人がスーパーで玉子と牛乳なんて買うでしょうか」といったところから捜査が始まったりするけれど、僕はそれを聞いてその通りだと思うと同時に自殺しようとする人がいつもしていることと違うことをするはずだというのは永遠に生きていこうとする人の側の勝手な幻想ではないかと思ったりもする。二度と生き返ることがないから死は取り扱いにくいのだけど、何度か生き返れるのだとしたら、僕はかなりの時間を死んでいることにするだろう。スーパーで玉子と牛乳を買って時々死ぬだろう。

永遠に生き続けようとしていた人が死んで遺したものに、こうして囚われ続けるのは、その人がまだ生き続けていることになる。ホコリまみれの本を拭いたり、付箋を剥がしたりしている間、僕は代わりに死んでいる。そう思うと、買取価格を意識するイライラから開放される。そんなことは生きている人の戯れ言にすぎない。僕は死んでいられる。


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