April 29, 2015

【139】読むたびに発見があるとしたら、本を読み終えることなんて永遠にできない。

日本史年表を見ながら読む。
網野善彦だから南北朝時代が中心になる。
今日から『日本の歴史をよみなおす』ゼミ。この本も何度か読んだはずなのに、なぜかこれまでとは桁違いの解像度で読める。気がする。

同じ著者、網野善彦の、より難解と言われる『増補 無縁・公界・楽』をゼミで読んできたというのも大きいけれど、それだけではない。

最近ゼミを始めたマルセル・モース『贈与論』は、日本の社会における金融の発生、「出挙」を説明できるのではないか。

『日本の歴史をよみなおす』でとる立場、日本はまだ未成熟な状態で、大陸から入る「文明的」なもの、例えば文字、貨幣、家父長制などを接合してきた。というところは、読み終えた椹木野衣の『日本・現代・美術』でいう日本が「悪い場所」であるということを説明できるのではないか。

一つの本を読むことに対して、他の本をどれだけ「接合する」かは、慎重でなければならないとも思うけれど、僕自身の中に蓄積された事柄でしか「読む」ができないのだから、他の本で読んだことが自動的に接合されてしまうのも確か。

こうやって同じ本が何度も読めて、そのたびに僕の中の何かがかわるとなると、本棚を前にして途方もなさを感じる。一冊の本を読むたびに、この棚にある膨大な文字と言葉がズルりと変質し、舌なめずりをしながら僕を招く。だとしたら、この棚の本を読み終えることは永遠にできない。


Share: