June 6, 2015

【176】他者がいないと自然に飲み込まれる。

昨夜、澪が友達の結婚式に出るからといって夜行バスに乗りに行って、数日は僕一人で家にいる。

一人でいると、家で起こることは自分で引き起こさなければならない。逆に言えば、澪という他者がいる間は、他者によって撹乱が与えられていた。猫が3匹いるけれど、それ以上にはるかに、人一人のもたらす撹乱は大きい。

一人でしばらくいると、自分がこの家という空間での事象の生起者であるということが明確になって来て、こういう時に例えば、大きな音で音楽を鳴らしたりする行為は、この空間の事象への影響力を空間隅々まで行き渡らせるような効果を持つし、あるいは、没頭できるような読書にふけることは、自分のいる空間そのものを絞り込んでその本の空間の中で、文字を読み進むということによって自分の事象の生起力を空間全体に満たすことになる。

そういうふうに、人はその空間の中の事象を引き受ける努力をしいられる。もしも、そういう努力を怠るとどうなるかというと、事象の隙間から自然がぞろりと這いずり込んで来る。

自然というのは、放っておいてもそうなるということである。お前など居ても居なくても同じである、お前によって生じたものはない、ということである。

自然は、いつも事象の舞台裏で舞台そのものを仕立てていて、人と人によるお互いへの意思の発露というお芝居の影にいる。他者の意思の発露、つまり自己にとっては撹乱が、自己の視界を覆っていて、その舞台上しか見えなくしている。意思の途切れた瞬間にふと、それが舞台であることを知り、その当然の帰結として舞台裏を連想させるが、すぐにまた舞台上へと視線は戻る。しかし、一人でいると舞台が生じない。お互いにとっての観客であり演出家であり共演者である他者の存在がないからである。

這いずりまわる自然がやがて、僕という自己による事象に、覆いかぶさってくる。自然が僕の意志を飲み込んでいく。それは、僕という意思によって生起されたはずの事象を、自然が生じさせたことであるというふうに意思の上塗りを始める。やがてすべてを飲み込んで自然は僕を取り込んでしまう。その時僕は自然の一部に過ぎず、自然と一体化している。

人が他者を求めるのは、この自然への畏れから発している。書くことへの困難は、この自然に飲み込まれ、自然に対する自分の陳腐さを思い知ることである。


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