昔は話すことが苦痛だった。
どうして自分でくだらないとわかっている話をし続けないといけないのか。
そんなことを思っていたような気がする。
今は全くそういう感じがなくて、楽しいと思うことしか話していない。
と書いて、上の一文を読み直すと、嫌なことは話さないでいるように読める。
そうではなくて、話している内容自体は楽しいことだけに限らないし、むしろ、昔の話すことが苦痛だった頃のほうが、話の内容自体は楽しいことを話していたように思う。
今は、そういうことはあんまり考えずに話していて、それでも結果として楽しい。
その、結果として楽しいということになるようなことしか話していないから、話している時点では、それが内容として楽しいことなのかどうなのかは判断できない。
と書くと、話している時点から見て一旦未来に自分をおいてそこから振り返ってみて楽しかったと言えるような話をしていると読めるんだけど、それも違っていて、そういう話したことによる結果というものを考えて話しているわけでもない。
と書いてきて、最初の文章まで読み戻して、こう書くのが一番すっきりすると思える文がわかってそれは、
自分がその時に面白いと思っている話しかしていない。
でも、相変わらず不思議なのは、話というのは相互的なので、あるいは、話というのは相互的なのか、今、僕に話をしてくれる人がみんな僕が面白いと思うことばかりを話すということで、一体これはどういうことなのかと思う。
そしてこれは話す、話されたもの、ということからさらに離れて、書く、書かれたもの、というところまで起こっていて、最近は圧倒される文章しか読んでいない。
今日もそんな一日だった。