書くことと話すことの大きな違いとして、反応がある。
書くことは話すことに比べ、圧倒的に反応が少ない。少なくとも反応までの時間が長い。この時間的な距離は書くことを決定づけている。反応が得られるまでに無限の時間がかるかもしれない。
無限まで行かなくても、数十年も経てば書いた人は物理的に死んでいる。また、生命として生きていたとしても、読まれるまでに必然的に生じる時間的距離によって、それを書いた時点での意思は失われていて、書いた人は死んでいる。
書くということは、反応、あるいは手応えと言っていいかもしれないが、それを前提としない表出である。誰にも伝わらず反応がなくても表すことである。誰もがすでに知り尽くしているありきたりのことをそれとは知らず、あたかも自分が初めて発見したかのように表すことである。そのことを恐れると書くことができない。
書くことにとどまらず、話すこと、描くこと、奏でること、つくること全てにおいて言えることだけれど、人間の表出など、歴史的と言えるごく一部の表出を除いて、陳腐である。だからこそ、人は少しでも自分の領域にあると思う方法、よりマシだと思う方法で表出しようとする。
相手の反応を前提としない表出として、書くことはある。
伝わることを前提としない表出として、書くことはある。
そのため、自分が何かであることを他者の反応の結果として確かめるために書くわけではなく、自分の表出をそのままの形でできるだけ遠くへと響かせるために書くことはある。
それが独自であるかどうか、正しいかどうか、ウケるかどうかとは無関係に。
書くことによって負うべきことすべては書いた者に帰属する。そのことによって書くことは他者に対して、つまり他者の反応、手応えに帰属しないことによって、自由である。